釈迦の生涯

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以下の文書は半ば歴史愛好家モードで書いております。熱心な仏教徒の方にはお勧めしません。


釈迦の名前は?

以前、私はお釈迦様の本名はゴーダマ・シッダルダ(スィダルタ)である、というように書いていましたが、どうもその後の調査で、それが怪しくなってきました。

彼が釈迦(シャキヤ)族のゴータマ姓の者であることは確かなのですが、「スィダルタ」という名前はかなり後の文献にしか出てこないようです。これは「成就した者」という意味、いわば仏とか如来とかいったことばと同義のことばのようです。つまり、この「スィダルタ」という名前は後世の人がそう呼んだ名前である可能性があります。

結局の所、お釈迦様の本名というのは、イエス・キリストがそうであるように、必ずしも明確ではないようです。そうであれば、無理してスィダルタと呼ぶよりも、通称の「お釈迦様」略して「釈迦」と呼んだ方がいいように思います。そこで以下はその方針で行きます。

(「イエス」は「神は救い」、「キリスト」は「聖なる尊い人」の意味。もっともキリストにしろ釈迦にしろ、現代日本に神(ジン)さんとか貴子(タカコ)さんとかがいるように、十分ありうる名前ではある。)

誕生

釈迦は北インドの小国で、この国の王の家に生まれました。父はスッドーダナ(浄飯王)、母はマーヤー(摩耶夫人)といいました。摩耶夫人が出産のために里帰りしている最中、ルンビニー園で休んでいますと、沙羅の花が満開でした。そこで夫人が1本手に取ろうと手をのばしたところ、釈迦が突然右の脇腹から生まれたといわれます。

誕生説話では、摩耶夫人は白い象を飲み込む夢を見て、釈迦を妊娠したといいます。そしてこの釈迦が生まれた時、神々はこれを祝福して天上から花の雨を降らせ、二頭の龍が産湯を注いだといいます。そして釈迦は梵天が出した網で受け止められ、四天王に抱かれて、神々・人々は祝福の焼香をしました。そして釈迦は、産着を着せられるとすぐ立ち上がり、四方を見回した後北に向かって7歩あるき、右手で上を左手で下を指し「天上天下唯我独尊」と言ったといいます。

これ故に、花祭りでは花でお堂をいっぱいにして、釈迦誕生仏に、産湯にみたてた甘茶をそそぐのです。また白い象のパレードがおこなわれるのも、上記の説話に由来します。

さて、お釈迦様が生まれて7日目に母の摩耶夫人は亡くなってしまいました。「右脇腹から生まれた」という説話と合わせて考えると、なにかの事故があったのかも知れません。

釈迦の父は後妻に、摩耶夫人の妹のマハーパジャパティ(摩訶波闍波提)を迎えました。マハーパジャパティはよくできた人で釈迦を大事に育てます。やがて弟のナンダも生まれました。

結婚と厭世

釈迦は16歳の時に従妹のヤソーダラ(耶輪陀羅)と結婚、4年後二人の間にはラーフラ(羅候羅)という男の子が生まれました。

(一説では16歳の時の相手はゴーパーで、ヤソーダラは2人目の妃だが身分が高いため第一夫人となったとも。釈迦には3人の妃がおり、もう一人の名前はマノーラター)

この「ラーフラ」とは「悪を倒す者」という意味ですが、読みようによっては「悪魔」とも読めるそうです。なぜ、そのような名前を付けたかというと、この子供が産まれたことが、自分を俗世間に縛り付けるものであるように思えたからではないか、という説を唱える人もいます。

ある時、宮殿で宴がありました。若き王子はそれに参列していましたが、宴が終わって散会したあと、何人かの侍女が酔いつぶれて、だらしなく眠っていました。それを見た純情な王子は、世の女性というものに幻滅し、厭世の思いが起きたともいいます。

樹下観耕のエピソードというのがあります。ある時王子は木の下で瞑想にふけっていました。目の前で農夫が田圃を耕し、その鍬に驚いた虫が地面の外に出てきました。するとそれを見つけた鳥が虫を捕って食ってしまいました。ところがその鳥が虫を捕って空に上ると、鷲がやってきて、その鳥を捕らえ、食ってしまいました。若き王子は死というものがあまりにもあっけなく訪れるものであることを思い知り愕然とします。

四門出遊のエピソードというのもあります。ある時王子は東の門から出かけた所老人と行き会いました。またある時は南の門から出かけた所病人と行き会いました。そしてある時は西の門から出かけた所葬列と出会いました。老・病・死という人生苦悩を見て悩んでいた王子はある時北の門から出かけて沙門(出家者)と行き会いました。そこで王子は、これぞ自分が生きる道だと思いました。

そして29歳の時、釈迦は夜中にこっそりと城を出るとそのまま髪を切り、出家して当時の北インドの中心であるマガダ国に向かいました。この時カーリーヘアーの釈迦は短く髪を切ったあとがクルっと短くまとまりました。この髪の様子が現在仏像に見られる螺髪です。

説話では王子の出家に気付いて父王の部下が5人追いかけてきて連れ戻そうとするも、逆に釈迦に説得されて一緒に出家し、荒行を共にすることになっています。しかしこれには疑問を提する人もあり、実際には荒行を共にしたこの5人(五比丘という)は、修行中に知り合った仲間であったかも知れません。(王子を守るために付いて来たのであれば、山を降りてスジャータの布施を受けた時に失望して去るのは不自然、という考え方も成立します。)

修行の果てに

出家した釈迦は最初マガダ国に著名な禅僧・アーラーラ・カーラーマを訪ねました。ここで釈迦は無所有処定という教えを習いますが、あっという間にそれを体得してしまいました。そしてそれ以上はそこで学ぶことはなかったので、次に同じくマガダ国の禅僧ウッダカ・ラーマプッタを訪ねます。ここでは非想非非想処定という教えを学びますが、これもあっという間に体得してしまいます。そしてそれ以上は学ぶことはなかったので、そこを去りました。

このあと釈迦はあとは自ら探求する以外にはないと考え、山林修行者の中に飛び込み、いろいろな苦行をしました。この期間は6年にも及んだといいます。この時に後に初転法輪にも付き合うことになる5比丘らと、ひとつの修行グループを形成していたようです。

しかし、長年の苦行をした結果、釈迦はこの苦行によっては自分の求めているものは得られないと悟りました。そこで釈迦はその修行仲間たちに別れをつげて山を降り、ネーランジャー川に臨むガヤーの地でヒッパラ樹の下に座り、そこで静かに瞑想に入りました。

そこに通りかかったセーナー村の牛飼の娘スジャータ(善生)は釈迦に乳粥の布施をしました。これは苦行で疲れた釈迦の体に滋養を付け、リフレッシュさせてくれるものでした。

(コーヒーに入れる「スジャータ」はここから名前を取ったものでしょう)

この木の下で釈迦は深く瞑想に入り、ついにブッダ(仏陀)となります。(この期間は3日とも一週間とも言われます)以後、この土地はブッダガヤーと呼ばれるようになりました。またそのヒッパラ樹は菩提樹と呼ばれます。(西洋の菩提樹Lindenbaumとは別の木です)そしてこの釈迦が座していた場所をボーディーマンダラ(金剛法座)と呼んでいます。

釈迦の悟りとは?

ここで「釈迦は何を悟ったのか?」ということを質問する人があります。それは「悟り」というものの位置が分からない故の疑問といえるでしょう。「悟る」は他動詞ではなく自動詞となって初めて真の意味を持ちます。

悟りというのは知識ではなく認識の問題です。しばしば有名な禅僧がカラスの声を聞いて悟ったとか、大笑いした瞬間悟ったという話がありますが、それは悟りに至る道を歩いていって、最後の一押しをしたものがそれであった故でしょう。釈迦の場合も、城でおとなくし王子をしていた時代から宇宙の真理に対する探求をしていて、それがマガダ国の禅僧のもとでの学習、山林での苦行を経て、最後に菩提樹の下での瞑想により、その境地にたどりつくことができたのだと思います。故に山林での苦行も決して意味のないものではなく、むしろ必須のものであったに違いありません。

「悟りとは、各自帰る家があって、そこに家族がいることだ」と言った人もあります。自らのなすべきことを見つけること。それが悟りです。禅の十牛図の最後は入店垂手。町の雑踏に帰ってきてこそ悟りは完成します。隔絶された修行道場は悟りに至る道ではあっても、悟りの最終ポイントを演出する場所にはなりません。故に釈迦は山を降りなければならなかったのでしょう。

初転法輪

仏陀となった釈迦は、はじめこの境地というものは他人にはとても伝えられないことだと考えました。しかしそこに天から声がありました。それは梵天の声であったともいいます。「そのことを人々に伝えて欲しい。世の中に広めて欲しい」

この梵天の勧請によって釈迦は自分の認識したことを人々に教え回ることを決意。まずはこの素晴らしい境地を今まで修行を共にしてきた仲間たち(5比丘)に伝えようと考え、彼らが移動するといっていた先バナーラスのミガダーヤ(鹿野苑)に向かいました。悟りを開いてから5週間後のことでした。

このバナーラスに向かう途中、釈迦はウパカという商人と出会います。ウパカは釈迦のただならぬ雰囲気に彼を呼び止め、さぞかし偉大な坊さんとお見受けするので、ぜひ教えを聞かせてください、と乞いました。しかしこの時は突然言われて、釈迦もまだどう説明していいか分かりませんでした。うまく説明できないいらだちから、釈迦はつい「天上天下唯我独尊」などと言ってしまい、ウパカに呆れられます。この時はウパカは「偉い人のように見えたが勘違いだったか」と思って去っていきますが、後に釈迦の弟子になりました。

さて、鹿野苑についた釈迦は修行を共にしていた5人の比丘を見つけます。そして彼らに自分が到達した境地をゆっくりと説明しました。すると5人の中で最も聡明なコンダンニャ(喬陳如)がその意味を理解しました。そしてそのあと、ヴァースパ(婆敷)、バドリカ(抜提迦)、マハーナーマ(摩訶那摩)、アッサジ(馬勝)の順で理解を示し、5人は以後、釈迦を自分たちの師とみなすようになりました。こうして釈迦の教えの最初のサンガが生まれました。

(サンガとは「仲間」の意味で修行の集団をこう呼びます。サッカーの京都パーブルサンガも母体となった紫光クラブを横文字に直した時にお茶目に「サンガ」の語を使ったようです)

教団の形成

5比丘の次に弟子になったのはバナーラスの豪商の息子ヤサ(耶舎)でした。ヤサは贅沢な生活をしていたものも何か心の中に満ち足りないものを感じていました。そんな時に釈迦に出会い、その教えを聞きます。その教えに心を動かされたヤサはまもなく出家して釈迦に弟子入り。彼の友人54人もまたそれに従いました。またヤサの父母は出家せずに在家のままサンガに奉仕する優婆塞(ウパーサカ,信士)・優婆夷(ウパーシキー,信女)となったのでした。

(出家して修行する者を比丘・比丘尼といい、在家で修行する人を信士・信女といい、修行者ではないが信奉して支援する人を居士といいます)

ある時、釈迦はマガダ国で1000人の弟子を持つ大きな教団を形成していたカーシャパ(迦葉)3兄弟(ウルヴェーラ,ナディ,ガヤー)と問答を行います。結果三兄弟は釈迦に帰依するようになり、彼らの弟子もまたこれに従いました。この話を聞いたマガダ国王ビンビサーラ(頻婆沙羅)もまた釈迦に帰依し、彼らに竹林精舎を寄進しました。

(ビンビサーラとその息子アジャータサットゥの物語は有名で、観無量寿経に記されています。アジータサットゥは後に北インドを統一して大帝国を築きます)

その頃インドには6人の偉大な思想家がおり、これは後に仏教側から六師外道(仏教外の偉大な6人の師)と呼ばれるようになります。その中の一人が不可知論を唱えたサンジャヤ・バーラッティプタなのですが、このサンジャヤの高弟にサーリープッタ(舎利子)という人がいました。

この舎利子がある時、5比丘の一人馬勝と出会い、問答をしました。馬勝の説く思想に驚いた舎利子はどうしてそのような凄いことが分かったのか問い、馬勝は自分は釈迦からそれを習ったのだといいます。舎利子はただちに釈迦に会わせて欲しいと申し出、会って釈迦と話をする内、これこそが真の教えであると確信します。

そこで舎利子はおなじくサンジャヤの高弟のモッガーラーナ(目連)を誘ってサンジャヤの許を去り、釈迦に弟子入りしました。二人に同調して、サンジャヤの弟子が250人、釈迦のもとに走りました。伝承では弟子を取られたサンジャヤは血を吐いて憤死したともいいます。

このサンジャヤの弟子たちは、サンジャヤの許で弁論を鍛えていたため、このあと釈迦の教団の発展に大きく寄与することになります。特に舎利子の力は大きく、やがて彼は釈迦の一番の弟子となります。般若心経にもその名前が出てきますので、みなさんもおなじみだと思います。

教団の発展

コーサラ国の富豪スダッタ(須達長者)はマガダ国を訪れた時に釈迦に会って感動し、在家信者となりました。彼は釈迦たちに修行の場を寄進しようと思いましたが、サーヴァッティのジェータ皇太子が所有している土地が最適だと思いました。そこで交渉に行くのですが、皇太子は相手にせず「欲しいのなら、その土地の広さと同じだけの黄金を納めなさい」といいます。

するとスダッタはほんとうにその土地に黄金を敷きつめはじめました。驚いた皇太子はスダッタにきちんと適切な価格でその土地を売ることを同意するのです。こうして釈迦に寄進されることになった道場が祇園精舎です。後世にはここに多数の寺が建ち並び、仏教の一大中心地となります。

教団が順調に発展しはじめた頃(伝承では成道から2年後)、釈迦はあの29歳の出奔のあと初めて、故郷に戻りました。すると既に彼の活動はこちらにも伝わっていましたので、あっという間に500人ほどの人が釈迦の弟子になりました。その中には釈迦の従兄弟のアナンダ(阿難)・アニルッダ(阿那律)・デーヴァダッダ(提婆達多)、弟のナンダ(難陀)、義母のマハーパジャパティ、妻のヤソーダラ、などもいました。更には息子のラーフラまで出家してしまい、釈迦の父は跡継ぎを失って落胆することになります。              ヤソーダラ(釈迦の従妹) ○−+−スッドーダナ     ‖−−−ラーフラ   |   ‖ ‖−−−−−釈迦   |   ‖ マーヤ−   |   ‖   |   ‖−−−−−−−ナンダ(難陀)   |   ‖   |  マハーパジャパティ(マーヤーの妹)   。
  +−○   。
  +−ドートナダナ−−−−アニルッダ(阿那律)   。
  +−アリムトーダナ−+−アナンダ(阿難)             。
            +−デーヴァダッダ(提婆達多) その出家した者の中に理髪師のウパーリ(優波離)がいました。彼は下層のカーストに属するため、最初彼が修行者の中で食事にやってくると他の者が席を立つような場面がありました。これに対して釈迦は真理の道に向かって修行する者の間では身分の上下は存在せず、全ての人が平等であると説きました。のち、ウパーリは釈迦の十大弟子のひとりとなって、経典の編纂で大きな役割を果たします。

教団が安定してくると、釈迦は教団自体は舎利子に任せて、阿難を連れて各地をめぐりあちこちで説法をしました。

あるところで釈迦はガウタミーという女性に出会います。彼女は子供を亡くして悲嘆にくれており、聖者として高名な釈迦に会うと「あなたの神通力で子供を蘇らせることはできないですか?」と言いました。釈迦はそれに対して「では、この町でまだ一人も死人を出したことのない家から白芥子をもらってきなさい」と言いました。ガウタミーは喜んで、町中を訪ね歩きますが、どんなに探しても死人の出たことのない家というのは存在しませんでした。彼女はその探求を通して誰もが肉親の死に遭遇していることを思い知り、多くの人に励まされて自分の行くべき道を悟りました。彼女も出家して釈迦の弟子になります。

あるところでは、釈迦は今までに999人の人を殺したというアングリマーラという男に出会いました。しかしアングリマーラは釈迦と話をする内にその教えに感動。今までの行いを恥じて、出家の道に入ります。

晩年から入滅まで

晩年いくつか釈迦を落胆させることがありました。

釈迦の生国がコーサラ国の毘琉璃王に攻め滅ぼされてしまいました。それから釈迦に初期の頃から支援をしていたマガダ国のビンビサーラが息子のアジャータサットゥ(阿闍世)に殺害されました。アジャータサットゥはその後、コーサラ国も攻め滅ぼしました。

(ただし後に阿闍世は釈迦に帰依し、父以上に教団を支援する)

また、基本的に戒律は緩やかにして人それぞれに適した真理への道を説く釈迦に対して、提婆達多は修行はもっと厳格であるべきだと主張。結局釈迦と袂を分かつことになります。提婆達多に従って教団を離れていったものも多数ありました。釈迦自身は提婆達多を評価していたといいますが、のちの経典には彼は悪の権化のように書かれます。阿闍世が父王を殺したのも提婆達多にそそのかされたからだとか、提婆達多が釈迦を暗殺しようとした、などとも書かれています。やはり彼の分離は教団を震撼させたのでしょう。

(提婆達多の教団もその後数百年続いたそうです)

また、長い間教団の中核となってきた舎利子も亡くなってしまいます。このあと教団はマハーカッサバ(摩訶迦葉)が率いることになります。

80歳の時、釈迦は旅先で体調を崩し、死が目前に迫ったことを悟ります。食中毒であったとも直腸癌であったともいいます。

そして釈迦はクシナーラの郊外の沙羅双樹の間に、北に頭を向けて右側を下にして横になり、阿難たちに見守られながら入滅。荼毘に付されて遺骨は釈迦を慕う8つの部族に分け与えられました。彼らはそれぞれその遺骨を納める舎利塔を建立します。この経過は涅槃経に描かれています。

釈迦が最後に言ったのは「私が亡くなっても悲しんではならない。自らを灯明とし、正しい教えを手がかりにせよ」という言葉でした。

なお、生誕の地ルンビーニ、成道の地ブッダガヤー、初転法輪の地サールナート、入滅の地クシナーラを釈迦の四大聖地といいます。

死後の教団

釈迦自身は著作を残しませんでした。

釈迦入滅後、阿闍世王はその教えが誤りのないようにするため、弟子たちが大集結して、釈迦の言動や教団の戒律などを書き残しておこうと考え、そのような会を持ちました。これを第一結集といいます。

この第一結集では、教団のリーダー摩訶迦葉が主宰し、500人の弟子(五百羅漢)が集まりました。常に釈迦のそばにいた阿難や戒律に詳しい優婆離が特にその中心的役割を果たしました。現在残されている仏典の中に「如是我聞」ではじまるものが多くありますが、これはもともとこの時に阿難が「私はこのように聞いております」といって語ったものです。後世作られた経典にも多くその形式をならったものがあります。

第二結集はこの100年か200年後になりますが、この第二結集で仏教は上座部と大衆部に分裂してしまいます。(根本分裂)

なお、釈迦の入滅の年については、BC483頃という説とBC383頃という説とがあります。

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