聖徳太子会(2.22)

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聖徳太子会(2.22)

2月22日は聖徳太子の法要が行われる日です。

聖徳太子をお祭りしている夢殿のある奈良法隆寺・弥勒菩薩の半跏思惟像で有名な京都広隆寺、それに聖徳太子が建立した大阪四天王寺などで聖徳太子を偲んで法会が営まれます。また浄土宗系の寺院でもこの法要を行うところが多数あるようです。

さて、この法要はしばしば「聖徳太子の命日なので」と書かれていますし、一部の文献では太子の死去の日付を621年2月22日などと書いていたりしますが、それは誤りです。

聖徳太子が亡くなったのは推古天皇29年2月5日(西暦621年3月6日)です。これはきちんと日本書紀に明記してあります。

では2月22日というのは何か?といいますと、恐らくは天平8年の2月22日に行信大僧都が法隆寺で300人ほどの僧を集めて法華経の講読をしたのが発端ではないかと思われます。

行信はその12年後の天平20年の2月22日にも法隆寺で聖霊会をとり行っています。この聖霊会はその後もずっと定期的に行われ、現在でも50年に一度行われています。最近では昭和46年の4月2〜4日(旧2月28〜30日)に行われました。

聖徳太子の事績については今更言うまでもありません。実質的に日本の現在の国の体制のプランニングを組み立てた人ということができるでしょう。

聖徳太子の時代は今までいくつもの国に分裂して争っていた中国に隋が現れ、全国を統一してしまった時です。当然周辺国としてはその力を脅威と感じます。この中で聖徳太子はこの国がきちんとまとまり中国に隙を見せないことが重要であるとの認識から、大臣の蘇我馬子・毛人親子とともに、やまとの国を天皇という「人」の統治する国から、天皇を頂点とする政治組織が「法」によって統治する国へと転換させようとしました。

そのためまず太子は冠位十二階を定めて、天皇家の家臣の身分の位置づけを制度化し、次いで十七条憲法を発布して、人々の心構えというものを説きました。そして隋に対しては朝貢するのではなく対等な国家の君主であるという立場を主張し、このやまとの国がこれから独立国としての地位を歩いていくのだということを宣言しました。(「日出処天子致書日没処天子」)

またここからは意見の分かれる所ですが私見で言えば、聖徳太子は自ら天皇として即位できる立場にあり、当然即位するものと周囲から思われていた所をわざわざ推古天皇を立てて自らは摂政という立場に立ち、結果的に天皇は国の統合の象徴として君臨し、実際の政治は摂政や大臣たちが合議して進めていくというスタイルを採用したものと思われます。

これを後に大化改新を進めた中大兄皇子(天智天皇)や、平安時代の支配者藤原一族、そして鎌倉・室町・江戸の3代の幕府も踏襲していきます。

このスタイルは天武天皇〜持統天皇・宇多天皇・白河天皇〜後白河天皇・後醍醐天皇など傑出した天皇が出た時に一時崩れていますが、だいたいにおいて1400年間にわたって続いている制度なのです。

また聖徳太子は仏教を非常に愛し、晩年は政治よりも仏教に熱心になってしまいました。結果的にはそのため政治中枢から離れてしまっています。

彼は14歳の時用明天皇の後継争いと仏教論争に端を発した物部・蘇我の戦役で歴史の舞台にデビューしていますが、このときも四天王の像を掲げて戦って兵士たちの志気を高揚させ、それを感謝して四天王寺(大阪)を設立しています。大阪四天王寺は現存する日本最古のお寺です。

また太子は仏教興隆の詔を出して寺の建築を推奨し、十七条憲法でも仏教の保護をうたっています。

なお、聖徳太子の妃は馬子の娘の刀自古郎女・推古天皇の娘莵道磯津見皇女、同じく推古天皇の孫の位奈部橘女王など、多数いたようですが、その中でも特に愛したのは膳部姫でした。

彼女は農民の家の娘であった為、いったん太子の忠臣の一人膳部傾子の養女ということにしてから結婚したとされています。二人の間柄は政治的色彩の無い完全な純愛であったとされ、彼女は太子との間に8人の皇子皇女をもうけ、彼女自身は太子とほとんど同時に亡くなっています。これは殉死などではなかったようで、恐らくはどちらかがどちらかの看病疲れで結果的にほとんど同時に亡くなることになったようです。ある意味では二人の愛のなせるわざと言ってもよいのでしょう。

膳部姫の生家貰田家は今でも継続しているようです。


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