凧・独楽・羽子板

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文部省唱歌の「お正月」にも歌われているように昔の子供の正月の遊びというと凧・独楽・羽子板といったものがありました。


凧(たこ)は江戸時代頃に海外から輸入され、独自の発展をしたもののようですが、最初関西で「いか」と呼ばれて普及したものが、関東に来ると関西への対抗意識から「たこ」という言葉が作られたとされます。輸入の窓口の長崎では「はた」と呼び、今でも「はたあげ」の大会が開かれたりします。長崎の「はた」は糸を他の人の「はた」に絡めて落としたりする喧嘩凧の形式でよく遊ばれています。

この独自に発展した日本の凧は、長方形の中に字を書いた字凧、奴の形をした奴凧、しゃもじに似た形の「とんがり」、また達磨凧、武者凧、六角凧、などなど多くの形が生まれ、飛ばす行為よりもその美しさが重視されました。こういう発達の仕方をしたのは日本だけかも知れません。


独楽(こま)は奈良時代に中国から伝わったもので、最初は宮中でだけ行われていたのがやがて貴族の間に広まり、江戸時代ころ、庶民の子供の遊びとして普及しました。平安時代頃までは貝殻で作られたものが多かったようですが、江戸時代頃からは木や竹で作られたものが一般化しています。

独楽の形にもいろいろなものがあり、私が小さい頃よくやっていたものは◇のような形の独楽に長く細い綱を巻き付け、投げ飛ばして長く回すのを競うものでした。この形が普通だと思っていたのですが、この「佐世保独楽」というのも、特徴のある形式だそうですね。穴のあいたコインに棒をたてて簡易独楽にしてしまう「銭独楽」などというのもあるそうです。

独楽の遊び方としては、そういった長く回すのを競うもの、他人の独楽を倒して遊ぶ「ベイ独楽」、手でひねって回す「ひねり独楽」、むちで叩いて回す「叩き独楽」などもあります。


羽子板(はごいた)は、無患子(むくろじ)の実に雉や鴨などの羽をつけものを板でたたき合って遊び、打ちそこなうと顔に墨を塗られるというのが決まりです。二人以上でついて遊ぶ追羽根(おいばね)と、一人で数え唄を歌いながらついて幾つまで数えられるか競う揚羽根(あげばね)があります。

【羽子板の起源】

羽子板は元は「羽子木板」(はねこぎいた)と呼ばれていたようです。

羽子というのはつまり羽根の付いた玉という意味ですね。それを打つ木の板というわけです(ひょっとしたら、羽の付いた子木を打つ板かも)。

それが漢字の方は「木」が省略され、読み方も音便的に「ね」と「き」が脱落して「はごいた」になってしまったようです。先頭の「羽」を脱落させた子木板(こぎいた,胡鬼板)という名前もあります。

羽根突きの遊び自体の起源は室町時代頃のようで、後崇光院(伏見宮貞成親王,後花園天皇の父)が永享4年(1432)に書かれた看聞御記にも記載されています。初期の頃はむしろ夏の遊びであったともいわれます。

当時から既にこれを年末の贈り物にする風習もあったようですが、現在のように金銀や正絹の押絵などで飾られた華麗なものが出てきたのは江戸時代後期になるようです。またその頃材質も杉から桐に変わって来たようです。


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