コンピュータの黎明

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この文書はdigital DANCEに1999年10月に連載したものに加筆修正したものです。

ABCからENIACへ  さて、世界で初めての電子計算機は何でしょうか? ENIACとお答えになる  方が多いのですが、実はその前にABCというマシンが存在したことが現代  では知られており、これが世界初の電子計算機とされています。
 
 1937〜1942年にアイオワ州立大学で John V. Atanasoff 教授と院生の  Clifford Berry が作成しました。1995年に同大で復元機が製作されまし  た。この復元には Berryの妻でAtanasoffの秘書であった Jean Berryも  協力しています。(ABC=Atanasoff-Berry Computer)

 このマシンは2進数による演算、論理回路、記憶装置などその後のコンピ  ュータにつながるアイデアが散りばめられていて、Atanasoffはこういっ  た考え方を Mauchly に教えており、そこからENIAC 誕生につながったよ  うです。

 さてバベジが蒸気機関で計算回路を「動かす」ことを考えていたのに対し、  むしろ「動かさない」方がよいと考えた人は多数いたようです。しかし、  問題はそういうマシンを現実に作ることの困難さでした。

ENIAC (Electronic Numerical Integrator And Calculator) はペンシル バニア大学の J.W.Mauchly と学生の J.P.Eckart Jr. によって製作され 1946年2月15日に公開されました。18000本の真空管、1500個のリレー、 7万個の抵抗器、1万個のコンデンサーが幅30m、奥行き1m、高さ3mの空間 に詰まっていました。重さは30トン。1秒間に5000回の加算を行う能力が ありました。このマシンはそれまでの計算機で24時間かかっていた計算を わずか30秒で実行することができました。開発費は48万6000ドル。今の お金に直すと500億円くらいでしょうか。この費用の大半は、弾道計算に これを使いたかった陸軍から出ています。電力消費は174KW。

MauchlyとEckartは「動かない」装置として真空管を使うことを考えた訳 ですが、真空管については、動作の不安定さの懸念があり、それ故のちに 日本で国産コンピュータ開発に取り組んだ富士通のスタッフなどは安定性 を求めて真空管の代わりにリレーを使用しています。そのことはMauchly たちも分かっていたのでしょうが、真空管はリレーより100倍速いという 魅力がありました。彼らはそこに賭けたわけです。

 MauchlyたちはこのENIACをとにかく立ち上げるために色々な妥協をしてお  り、たとえばこのENIACはメモリーを持っておらず、プログラムも配線を  変えて対応するというやり方でした。
 
 プログラムの考え方はノイマンが考えたと思っている方も多いですが、実  はバベジの時代からありました。Mauchlyも分かっていたはずですが、と  もかく、マシンの完成と安定動作の方に全てを集中したのでした。
 
 そして、このENIACは、人々に「電子の力で計算ができる」という将来への  可能性を見せてくれました。ENIACというマシンはそういう意味でコンピュ  ータ史上に重要な位置を占めるマシンということができるでしょう。

 なお、ABCのプロジェクトがその後発展しなかったのは、第二次世界大戦が  終わってしまったからのようです。同様に1943年頃イギリスで、チューリ  ング機械の考案者 Turing らにより Colossus という電子計算機が製作さ  れていますが、これも戦争終結でその後の研究が中断してしまったようで  す。逆にいうと、戦後アメリカでこれほどコンピュータが発達したのは  アメリカが引き続き朝鮮戦争を戦ったためかも知れません。

という訳で次回は Mauchly と Eckartのその後の話になります。

ENIACからUNIVACへ さてENIACがほぼ完成に近づきつつあった頃、現代の万能学者ともいうべき J.von Neumann が次世代のコンピュータにはやはりプログラムを内蔵すべ きであるということを提唱します。これによって動き出したプロジェクト が EDVAC (Electronic Discrete Variable Automatic Computer) です。

 しかしEDVACのプロジェクトは次第に理想を求めるフォン・ノイマンらの  設計グループと実用性を重視するモークリーらの技術グループとの間に、  だんだん亀裂が生じていったとされます。

 そしてとうとうモークリーらはこのプロジェクトから離脱。EDVACが一通り  の完成を見るのは1950年のことで、フォン・ノイマン型のコンピュータの  第一号の名誉は1949年イギリスのM.V.Wilkesらによる EDSAC (Electornic  Delay Storage Automatic Computer) に奪われてしまいます。なお、この  EDSACの前に例のTuringらがACE(Automatic Computing Engine)というプロ  ジェクトをしているようですが、これは完成していないかも知れません。
 (この時期いろんな人が同時に取り組んでいるのでよく分からない)  
 一方のモークリーらは新たな実用的計算機 UNIVAC (UNIVersal Automatic  Computer) を作り始めますが資金難に苦しみます。当時のPCSの大メーカー  であるIBMに資金援助を求めますが断られ、結局レミントン・ランドの助け  によって発売にこぎつけます。これがやはり最初の商用電子計算機という  ことになるかと思います。1951年のことでした。以降レミントン・ランド  社から UNIVAC は販売されていくことになります。

このUNIVACはENIACからすると真空管の本数が3分の1以下の5000本に抑えら れていました。そのため重量も7.2トンに減少しています。また計算回路は ENIACより簡略化されていましたが、そもそもの速度があがっているため、 演算能力はENIACより優れていて1秒間に10万回の加算を実行できました。
また真空管メモリーに代えて、もっと信頼性の高い、水銀遅延管メモリー を採用しました。更には従来の紙テープに代えてデータの記録媒体として 磁気テープを採用しています。

 このUNIVACの価格は1台目が15万9000ドル、2〜3台目が25万ドル。全部  で6台作られました。第一号機はスミソニアン博物館に展示されています。

さて、このUNIVACは政府のCensus Bureau(国勢調査局?)に納入され、その あおりを食ったのがそれまで同局のマシンを独占していたIBMでした。IBM は急ぎ自社でも電子計算機を開発することを決めますが、これは次回に。

International Business Machines この壮大な名前を付けたのがトーマス・ワトソン1世であることは知られ ていますが、この大企業の発端はワトソンがこの会社に参加するより26年 も前の1888年まで遡ります。

1888年、Willard Bundy は自分が発明した出退勤時刻記録装置、つまり今 日でいうところのタイム・レコーダーを販売する会社 Bundy Manufacturing Company をHarlow Bundyとともに設立しました。この会社は後に International Time Recording Company と名前を変えています。

1890年、国勢調査局は国勢調査の集計の為の新しい機械を募集しました。
このコンテストで優勝したのが Herman Hollerith で、彼の作った機械〜 後にPCSと呼ばれるようになる〜を販売する会社として Tabulating Machine Companyが設立されました。

1891年、Edward Canby と Orange O. Ozias が、計量器を作る会社として Computing Scale Company of America を設立しました。この会社は肉や パンのスライサーやコーヒーミルなど製造していました。

1911年、銀行家のCharles Flint は上記3つの会社の合併を進め、Computing- Tabulating-Recording Company (CTR)を設立しました。しかし彼はこの企 業を十分うまく運営することができませんでした。そこで彼がこの企業の 経営者としてスカウトしてきたのが Thomas Watson です。
Thomas Watson は NCR (National Cash Register Co.)のやり手の営業マン で、抜群の営業成績によりどんどん昇進し、副社長の地位まで登り詰めま したが、そこで社長の John H. Pattersonと衝突。退職したばかりでした。
Watsonはこの新しい企業の状況を把握した上で、中核に置くべきなのは PCS に関する事業であると判断。そこに力を注ぎ込んで、この企業を急成長さ せます。そのため、WatsonをIBMの創始者と思っている人もあるようです。
Watsonは社長に就任すると "Think" という社是を定め、社名を IBM - International Business Machines という壮大なものに変えて、社員のモチ ベーションを高める努力をしました。そしてその名の通り、彼はこの企業 を世界中に進出させていくのです。

MauchlyとEckart が1946年にENIACを作った時、Watsonもそれを見に行き ました。しかし彼はそのマシンがとても実用に耐えるものとは思えなかっ たといいます。そこで彼らが次のマシンUNIVACを作るのに資金援助して欲 しいという話を持ってきた時それを断るのですが、実際には彼らはレミン トン・ランドの支援でUNIVACを完成。このマシンはHollerith以来 IBM の 牙城としてきた国勢調査局に納入されます。するとWatsonはこちらも対抗 して電子計算機を作るべく大号令を掛けます。

むろんIBMが電子計算機の開発をそれまで何もしていなかった訳ではありま せん。1944年にはハーバード大学と共同でリレー式計算機Mark I を製作し ており、1948年には演算装置に電子回路を採用した SSEC を完成させてい ます。更には1949〜1950年に完全な電子計算機の試作機 Test Assembly を 完成させていました。

IBMの商用電子計算機の第一号は1952年に発売された IBM701 であるとされ ています。このマシンは軍事用に開発された2進コンピュータでPCSとは別 の系列に属するもののようです。UNIVACに対抗した事務用の10進コンピュ ータが完成するのは1953年、UNIVACに遅れること2年。IBM702でした。しか しここからIBMは徹底的にUNIVACを反撃。シェアを奪い返すことに成功します。

すると今度は逆にレミントン・ランドの経営が苦しくなり、同社は1955年 スペリーと合併して、スペリ・ランドになりました。

さて、次回は初期のIBMの話の後半です。

360度 IBMの初期の電子計算機は科学技術計算用の701-704-709 といった系統と 事務計算用の 702-705 という系統の2つに別れていました。
1964年IBMはその後の全てのコンピュータのモデルともなる 360 という 画期的なコンピュータを発売します。360という名称は円周の 360度 から 来ていて、技術計算とか事務計算とか言わずに、全ての処理に使えるマシ ンという意味でした。
この360の前身は世界初のスーパーコンピューター Stretch です。1954年 から開発が始まり、1961年に出荷にこぎつけています。360はこのStretch のアーキテクチュアを引き継ぎながら、拡販用のマシンとして控えめの設 計になっています。

Stretchではメモリー空間をビット単位で参照できましたが、360では全て をバイト(8ビット)単位の管理に統一し、24ビットのアドレス指定で16MB までアクセスできるようにしました。(Stretchはビット単位なので2MBまで)

この時期まではデータの処理単位は、そもそも10進数で回路が作られてい るマシン(ENIACのように)、6ビット単位のマシン(キャラクターマシン)、 8ビット単位のマシン(バイトマシン)、7ビット単位のマシン、12ビット単 位のマシン、36ビット単位、64ビット単位など色々なマシンがあったので すが、この360以降は、バイト単位の処理が事実上の標準になります。

また命令のアドレスの仕組みを基底レジスタからの相対アドレスによる参 照という方法を取り入れたことにより、メモリーの中でプログラムを移動 することが可能になりました。またインデックス・レジスタを普通のレジ スタと同様の扱いにしたため、インデックス・レジスタ上でも加算や乗算 を行うことができるようになり、プログラムの可能性が広がりました。

この360はテキサス・インスツルメント社が開発したICを使用した最初 の商用コンピュータでした。この360の高い機能を安定して動作させる為 には従来のように部品を全て配線して組み立てる方式では技術的に困難 であり、シリコンの板の上に不純物を浸透させて部分的に半導体を生成 し、回路とトランジスタを同時に生成してしまう!!というこの革命的な 技術が、この世界初の『汎用機』を可能にしました。

この360の開発で指導的な役割を果たしたのはフレデリック・ブルックスや ジーン・アムダールなどでした。アムダールについては数日後また述べる ことになるかと思います。

ブルックスは「360の父」と呼ばれる人で、いろいろな格言をのこして います。いわく。

・遅れているプロジェクトに人を追加投入すると、更に遅れる。
・プログラムの製品化にはそのプログラムを作る労力の3倍の労力が必要である。
・ソフト技術者はプロトタイプのα版やβ版をほとんど使っていない。
・たいていのシステムで最初の版はほとんど使い物にならない程遅く、使いにくい。
・小規模の修正はシステムの混乱をもたらし、根本的な設計の見直しをもたらす。
・欠陥の修正はまた新たな欠陥を産み出す。

彼が恐らく部下のプログラマーたちと上司の営業マンとの間に板挟みにな って苦労した様が伺えます。アムダールは360のプロジェクトのあと、独立 してアムダール社を作りますが、ブルックスも360の発売翌年、ノースカロ ライナ大学に移っています。

IBMがStretchそして360を開発していた頃、レミントンランドにいたSeymour Cray はCDCという会社を作って、やはりスーパーコンピュータの開発に取り 組んでいました。また日本では富士通や日本電気などがやっと電算機事業に 本腰を入れようとしていました。そして360が発表された半年後の1964年10 月、松下はコンピュータ事業からの撤退を表明します。

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