ワープロの歴史

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雑談とワープロ前史 私が以前いた会社でほとんど強引にワープロ文書によるドキュメントを導入 したのはたしか1987年頃でした。

そのころまでコンピュータの会社というのに社内の文書は全て手書き。ワー プロはありましたが、請求書や見積書などの対外文書にしか使用していませ んでした。
私は悪筆な上に普段書く文字は自己流の略字を大量に使用している為、逆に 他人が読める文書を手書きで書くと、ものすごい時間がかかります。しかし タイピングは中学時代から英文タイプを打っていて、カナ配列もワープロを 初めて見た時に感動して一週間猛特訓したおかげで、英文で 200〜300字/分, 日本語で 80〜100字/分 で入力できていました。つまり私の場合ワープロの 方がよほど速く文書が書けるので、時間節約にワープロを使ったのでした。
(そのころ手書きなら3日かかる文書を5時間程で書けるようになった)

当時「仕様書ごときにわざわざワープロを使うなんて」とか「ワープロだと 仕様書の修正を誰がしたか字を見ても判断できないはないか」という、社内 の声に対抗するのには苦労しました。しかし私が仕様書をワープロで作って いるのを見て、若いSEが真似して自分たちもワープロを使い始め、2年程 の間に逆に仕様書はワープロが当たり前になってしまいました。

恐らく1980年代後半のどこかの時点で、多くの企業で似たようなことが起き ていたのではないでしょうか。

欧米では1714年にヘンリー・ミルがタイプライターを発明。欧米の人たちは 長い時間、活字による文書に親しんで来ましたが、わずか26文字の大文字・ 小文字しかない英語などと違って、日本語には大量の漢字があり、その文字 数は康煕字典に載っているものだけでも4万7千字あります(異体字を入れる とおそらく20〜30万文字。現在、石川忠久らの「文字鏡」プロジェクトでは 8万字の漢字を収録している)。そのため和文タイプライターが発明された のはずっと遅れて1915年のことでした。発明したのは杉本京太で、レミント ン製の英文タイプを改造したものでした。(特許1915.6.12-No.27877)

これは活字の収納庫を左右に移動させてそこからすくい取って紙面に打ち付 けることにより、多くの種類の文字を印字できるようにしたものです。発売 は1920年になったようです。(和文タイプはその後菅沼整一が見出しを見て 文字を選択できるという発明(1931)をして現代の方式に進化したようです)

欧米ではタイプライターが比較的一般にも普及し、ビジネス文書だけでなく 私信でもけっこうよくタイプライターは使われていたようです。これに対し て日本では歴史が浅かった(とにかく発明後まもなく暗い戦争の時代に突入 してしまった)こともあって、和文タイプは利用がかなり限られていました。

日本とアメリカでワープロの登場した年代がそんなに違わないのに、日本で 普及が遅れたのは、日本語処理の技術の問題もありますが、やはりそういう 基底文化の差もあったのかも知れません。

ワープロの誕生 アメリカでワープロの概念が生まれたのは1965年前後のようです。初期の ワープロは今では信じがたいことですが、バッチ処理でした。
文書のデータをパンチカードで入力し、内容を磁気テープにコピーすると ともに結果を電動タイプライターに印刷させます。それを見ながら修正の コマンドを又パンチカードで投入し、再度印刷させる。これを繰り返しな がら作業をすすめていました。
これがミニコンの登場により、一台のシステムを一人のオペレータが長時 間占有してもよい状況が生まれると、対話式で文章を修正できるシステム というものが考案されます。それが出てきたのが1970年代前半(1972年と いう説も見るが未確認)のようですが、特に今は亡きワング社(Wang Labo ratories)が発売したものは人気があり日本にも輸入されました。当時日本 国内で2000万円ほどしたようです。

これが1970年代後半になると、こういうシステムをマイコンに乗せてもっ と気軽に誰でも使えるシステムを作ろうという動きが出てきます。

1978年にはシーモア・ルービンスタインが「ワードマスター」を開発。続 けて、マイケル・シュレイヤーが「エレクトロニック・ペンシル」をアル テア上で動かしました。ルービンスタインは更にCP/M上で動作する 「ワードスター」を1979年6月に発売。同年にはポール・ルータスの「アッ プル・ライター」、ジョン・ドレイパーの「イージーライター」も生まれ て、パソコン上のワープロソフトは一気に注目されるようになります。
(ワードスターの作者をロブ・バーナビーと書いてある文献もある。確認中) その中でも、特にワードスターは一種の標準ソフトの地位を獲得。その後 全てのワープロおよびテキストエディタは「ワードスター式」のカーソル 移動方式に準じるかあるいは選択できるようになっていました。

日本語入力への挑戦 さて、コンパイラとか表計算とかお絵かきソフトのようなものは、アメリ カで作られたソフトが、ほとんどそのまま日本でも利用できるのですが、 ことワープロに限って言えば、相当の問題があると言わざるを得ません。

それはなによりも「日本語」の問題がありました。英語はアルファベット 26文字が大小あって、それに数字・若干の記号を入れて文字セットが完成 しますが、日本語の場合は、大量の漢字の処理という問題がありました。

これはまず漢字の表示の問題で、英語が7ビットまたは8ビットで処理して いたものを倍の14ビットあるいは16ビットで処理する方式にすることが考 えられました。印字方式としては、和文タイプを連動させることも考えら れないではなかったと思われますし、写植機につなぐことも考えられたと 思いますが、価格を考えると結果的にドット式のプリンタという線が当初 は成立しました。

そして最大の難関は日本語の入力の問題であったとも言えます。

日本語を入力する方式としては、初期の段階では次のような方式が使用さ れました。

・漢字タブレット方式・・・つまり和文タイプと同様に漢字を一覧表か              ら拾って入力していく。

  ・多段シフト方式・・・・・漢字タブレットをいわばコンパクト化した                もので、1つのキーに8〜12文字が割り当                てられていた。

  ・2ストローク方式・・・・全ての漢字にカナ2文字の「ストローク」                を割り当てておき、それを暗記している人                が高速タイプする。

  ・かな漢字変換方式・・・・かなで入力して漢字に変換する。

漢字タブレットは私も使っていました。これは慣れると(つまりタブレッ トの文字の配置を覚えると)けっこう高速に入力できます。ものの本には この方式では1分間に20文字程度が限界ではないかと書いてあったりしま すが、私の場合で1分間に50文字程度入力できていました。社内には私よ り速い人もいました。

多段シフトキー方式は一時期かなり使われていたようですが、残念ながら 私は実物を見たことがありません。2ストロークは面白いです。要するに 人間が変換マシンになる訳で、私もこのストロークコードを覚えようとし たのですが、近くに実際に使える環境がなかったので、途中でやめてしま ったように思います。

そして、最終的に残ったのが、かな漢字変換方式でした。このかな漢字変 換方式には、単漢字変換、単語変換、文節変換、熟語変換、文章一括変換、 といったレベルがあります、しばしばこういう順序に発展してきたように 思われていますが、実は最初から文章一括変換が考えられていたようです。
そして、昨日英文ワープロの初期状態がバッチ処理であったことを書きま したが、かな漢字変換についても当初はバッチ処理指向であったようです。
というよりその頃はバッチ処理以外のものは考えようがありませんでした。

バッチ処理の場合は今のように変換の候補を見ながらオペレータが判断す るなどということができませんので、文章の文法解析などにかなり厳しい 精度が求められました。この研究をしたのは九州大学の栗原俊彦(1922.3. 21-1973.1.4)でした。

栗原は日本語の文法のいい加減さと、国語辞典の使えなさに苦労したよう です。実をいうと私も任天堂のファミコン上でかな漢字変換システムを作 成したことがあるのですが、文法問題も苦労しましたし、変換辞書の調整 にかなりの時間を割くことになりました。

(ファミコンでのキー配当: 方向キーで画面上の仮想キーボードを操作し Aで入力。STARTで変換/次候補。SELECTで確定。Bは取消。)

まだ私が開発したシステムなどは対話式で候補を選べましたし、既にパソ コン上で動作しているATOKやVJEなどの外見上の動作を参考にできましたが こういうものを世界で初めて、バッチ処理指向・文章一括変換でやろうと していた栗原の苦労は並大抵のものではなかったろうと思います。栗原は 今日でいう所のAI変換まできちんと処理していたそうです。彼が若くし て亡くなったのも、まさに戦死を思わせるものです。

 栗原が研究半ばで亡くなったあと、そのあとを継いで研究を完成させ、日  本語ワープロを世に送り出したのは東芝の森健一らのチームでした。

日本語ワープロ誕生 日本で最初に発売されたワープロは東芝のJW-10です。1978年9月26日に発 表され、翌年2月から出荷されました。
価格  : 630万円。
記憶装置: 10MB-HardDisk, 8inch-FloppyDisk 書体 : 独自開発。コードは発表されたばかりのJISに準拠。
表示装置: 中央無線製ラスター式CRT 24dotの漢字を 41桁×14行表示 プリンタ: ワイヤドット式 24dot/文字 (独自開発) CPU : ミニコンTOSBAC40CのCPU相当をLSI化したもの。
このワープロは、それ自体が机の形をしています。座る所の右袖に本体 があり、前にキーボードとディスプレイ。ディスプレイの右にプリンタ が装備されていました。
このシステムを開発したのは森健一・河田勉・天野真家のチームでした。
森健一(後テック専務)については、郵便番号の自動読取機の開発者の一人 として記憶しておられる方もあるのではないでしょうか。
郵便番号が導入された時、郵政省は「住所をコンピュータが読みとれたら いいのだけど、数字だけなら読めるようになりました」といって広告を流 しました。(現在の読取機は既に住所の字も読んでいる。特に最近はプリ ンタで打たれたものが多いので認識率も高い) 森はこのシステムで数字の認識の処理をやったあと、自然な延長として、 文字の認識に進み、さらに日本語の文法処理に興味を持つことになったよ うです。1971年頃からこの分野の研究を開始。栗原の研究結果なども参考 にさせてもらいながら、当初はIBM360上でシステムの開発を進めます。

しかし森は途中でこのシステムを商品化するには高価な汎用機ではなく、 小さな企業でも買えるミニコンを利用した方がいいと判断します。ここに 汎用機+バッチ処理、というシステムから、ミニコン+対話処理、という パラダイムの転換が起きました。これが1976年頃だったようです。

この対話処理に変えたことによって、最も大きく変わったのは、変換候補 を画面に表示させてオペレータが選ぶことができるということでした。一 括変換方式では、どんなに精度をあげていっても、どうしても本来の意図 と異なる変換というものがわずかながら発生します。そのわずかに発生し た誤変換を修正するのは、また大変な作業でしたが、その場その場でチェ ックしていけば、その問題を回避できるのでした。
しかしこの方式はまた新たな問題も産み出しました。画面上で修正できる ようにするということは、画面上で文字の挿入・削除が自由にできなけれ ばなりません。当時前例のない環境で、そのソフトを開発するのもかなり の苦労であったようです。(今でもこのロジックをゼロから自作するのは たいへんである。昔は文書の先頭に文字を挿入しようとすると2〜3分帰 ってこないワープロも多かった)

東芝のワープロはその後 JW-10の直接の後継機 JW-10/model2 (360万円)と ハードディスクを付けずに代わりにフロッピーを2機付けた JW-5 (280万円) そして卓上型のJW-7 (270万円) と分化していきます。そして1982年にはつ いに初の50万円台の価格を付けた JW-1 が登場。ワープロは一気に企業に 普及しはじめました。
パソコン上で動く日本語ワープロソフトが出始めるのはその翌年1983年です。

日本語ワープロソフトの発売  日本語ワープロソフトとして現在の唯一の生き残りともいうべき「一太郎」  を生んだのは徳島のジャストシステム(www.justsystem.co.jp)です。
 
 最初に一般販売されたのは日本電気(京セラ)[PC-100]対応の JS-WORD (1983  年10月)で、その後1984年に今度はIBMのJXシリーズ用のjx-WORDを発売し、  PC9801対応のワープロソフトとしては 1985年2月「jx-WORD太郎」を発売。
 そして、同年8月「一太郎」を発売して、その後、その名前で定着しています。
 
 一太郎とともに開発された日本語入力支援システムがATOKですが、一太郎  とATOKの最初の作者はよく知られているように同社の専務・浮川初子です。
 
 浮川は最初入った会社でコンパイラの開発関係の仕事をしており、そこで  つちかった基本プログラミングの技法をつぎ込んで、日本語処理システム  の開発を行いました。俗説では夫で社長の浮川和宣がコンピュータを販売  した時に顧客から「日本語は出ないの?」と言われ「では妻に作らせます」  と答えたのが開発のきっかけであるとか。これが1980年頃のもよう。

 最初はオフコン上で日本語が処理できるシステムを作成し、その後パソコ  ンのCP/M上でかな漢字変換システムを作成。これがデータショーで評判を  取って、最初はアスキーの下請けでソフトを作成。やがて独立して日本語  処理に関するトップ企業へと成長していくことになります。

 1980年代にジャストシステムの「一太郎/ATOK」と人気を二分したのが、  管理工学研究所(KKK, www.kthree.co.jp)の「松/松茸」でした。

管理工学研究所は1970年頃に写植機の日本語組版システムに関わり、その あたりから日本語処理に関するノウハウを得たようです。1983年夏に 「日本語ワードプロセッサ」を発売、その年暮に「松」を発売しました。
 この松の開発者として知られているのが国分芳宏で、彼は後に独立して  言語工学研究所( www.mmjp.or.jp/gengo/ )を設立。規則音声合成など、  日本語関連の研究を続けます。
日本で最初のワープロがどれだったかは幾つか説があるようですが1982年 に出たリードレックスの「万葉」ではないかと思います。1983年に高電社 の「マイレター」が評判になり、エイセルの「JWORD」もかなり売れたよ うです。このJWORDは初めて汎用OS上で動作するワープロでした。

 この1983年には他にも多数の日本語ワープロが発売されており、この年が  実質的な日本語ワープロ元年と考えて良さそうです。松茸は後にLotus1-2-3  に標準バンドルされて販路を拡大し、MSDOS時代はずっとATOKのよきライバ  ルであり続けました。
日本語入力支援システムとしてもうひとつの大勢力 VJE はVACS (vacsweb3.vacs.co.jp) が開発しましたが、このVJEはダイナウェア(www.dynaware.co.jp)やCSK (www.csk.co.jp) などのソフトにバンドルされて販売された分がかなり あります。vacs自身も VJE-Pen というワープロを出してはいますが、 どちらかというと、VJEの場合は、この日本語入力支援システムのみに 焦点を絞って開発を行われていたように見えます。このため、1980年代 後半においては、その変換の正確性は他のソフトよりかなり上まわって いました。

また、VJEは早くからMacintosh, UNIXなど他の環境にも移植され、その ため、これらの環境に馴染んだユーザーに信奉者が多いようです。

マッキントッシュではこのVJEとエルゴソフトの「EGWord/EgBridge」が 人気を二分していました。しかしこれらのソフトはバージョンアップの 速度が遅かったため、やがてマッキントッシュ版が発売されたATOKに 抜かれることになります。

マッキントッシュにはこのほか北海道のBridgeが開発した「TurboLiner」 の文化があります。このソフトは日本語対応している最初のアウトライン プロセッサで、当時ほとんどのマック関係の出版物はTurboLinerで草稿 が作成されていました。Bridgeはワープロ(TurboWriter)と入力支援シス テム(TurboBridge)も出していましたが、そんなに売れていないと思いま す。TurboLinerは長く類似ソフトが出ませんでしたが、あまりにもいつ までもバージョンアップしなかったため、やがて外国製のソフトが日本 語化されたものに取って代わられていきました。最近はテキストエディタ でもTurboLinerライクなアウトライン編集機能を持つものがあります。

一方のPCの方では、他にサムシンググッド(現アイフォー www.ifour.co.jp) の刀もありました。これは同社のデータベースソフト忍者とともにヒット したものです。

なお、パソコンメーカー各社も自社のパソコンに日本語入力支援システム を搭載していました。日本電気の「NECAI」富士通の「OASYS」アップルの 「ことえり」などは代表的です。

かなり後になってから、WXという日本語入力支援ソフトが出てきました。
これはパソコン通信文化の中で育てられたソフトです。後に、Microsoft はこのWXをベースに Microsoft IME を作成しますが、あまり賢い変換 はしてくれないようです。

一方unix文化の中ではWNN(うんぬ)という日本語入力支援ソフトが出て きました。この名前は「Watashino Namaeha Nakanodesu」を一発で「私 の名前は中野です」と変換できるソフトを作りたいということで生まれ たものです。

ワープロとテキストエディタ  さて、文章を入力するソフトというと、ワープロだけではなくテキストエ  ディタもあります。また、アウトラインプロセッサ、DTPソフト、  データベースソフト、表計算ソフト、お絵かきソフトなどをワープロ代り  にしている人もいます。またこれらの類型にあてはめにくいソフトも存在  します。

 基本的には印刷を目的とし、文字のデザイン・配置調整などの機能を持つ  ものをワープロといい、文章そのものの入力・編集を目的とするものをテ  キストエディタといいます。また図版を含めた高度なページレイアウトの  機能を持ち、商業印刷の原版を作成できるものをDTPソフトといいます。

        表現力 共同作業 速度  価格  ファイル 流通性

 DTPソフト 高度   可   遅い  高い  独自形式  無し  
 ワープロ   中    不可  中   中  独自形式  有り  
 エディタ   低い   不可  速い  安い  テキスト  十分

 企業ユーザーの場合、ちょっとした連絡用のメモなどもDTPソフトで  入力してしまう人も結構います。

 パソコン通信に親しんだ人や、文書を資料として(つまり後で検索ソフト  にかけることを想定して)保管したい人は何でもエディタでやってしまう  傾向があります。一方、パソコン初心者の人はワープロがとっつきやすく  感じるようです。

 初期の頃はエディタは本当に文章を入れるだけだったのですが、最近のも  のは複数の書体を混ぜたり、図版を挿入したり、ホームページの編集まで  できるものもあります。また、数MBという巨大なファイルを軽く開いて編  集できるのはエディタだけです。
 
 DTPソフトの最大の特徴は、複数の人が同じ文書の別のページを同時に  編集したりしても問題ないことでしょう。しかしあくまで印刷原稿を作る  ためのソフトなので、データのまま他の人に閲覧することはできません。
 
 この目的に使われているのがワープロということもできます。しばしば、  テキストだけでは記述しきれない説明文書にワープロのファイルが使用さ  れてきました。MS-WORDなどの文書ファイルはたいていのワープロソフト  が読めるので使用されていたのですが、最近はこの目的にはむしろHTML  やPDFなどの汎用フォーマットが使用されるようになり、ワープロの使用  機会は減っているようです。
 
 アウトラインプロセッサとしては昨日書いたTurbo Linerがあまりにも素晴  らしかったのですが、この手の機能は現在はClaris Impactのようなアイデ  アプロセッサや、多くのテキストエディタに組み込まれています。通常は  文書の草稿の編集に使用しますが、変更の多い文書はアウトラインプロセ  ッサのまま管理しておいた方が使いやすいので、そういう運用になってい  るところはけっこうあるのではないかと思います。
 
 表計算ソフトをワープロ代わりに使うというのは、Lotus 1-2-3 の利用者  が始めたようにも思います。日本でLotus 1-2-3 が発売された時、松茸を  搭載していたので、そのパワフルな日本語入力能力を利用して、1-2-3の  1行に文章1行を入力して、ワープロ代わりにしている人をよく見ました。
 
 お絵かきソフトをワープロ代わりにしていたのは、通常のワーブロの表現  能力を不足に感じていた人たちです。文章の編集が大変そうでしたが、  図版の多い書類の場合は、意外とこれが行けます。当然、DTPソフトを  使うより高速ですし、安く済みますし、微妙なピッチの調整も自由自在で  すから、本の出版とかをしない限りはこれで十分な表現力があります。

 データベースソフトの中では、FileMakerやHyperCardをワープロ代わりに  使っている人はよく見かけました。

文字印刷技術の発展  さて昨日は文章の入力の方に注目したのですが、ワープロは入力するだけ  が目的ではなく、印刷する方にも重要なファクターが置かれます。
 
 東芝が開発した日本最初のワープロ専用機は24ドットの独自フォントを搭  載していました。その後しばらく、日本語の低価格プリンタは高級機で  24ドット、普及機で16ドットという状況がありました。16ドットのプリン  タで複雑な文字を印字すると、ものすごく字画が省略された文字になって  いました。
 
 その当時「ワープロは役所などへの納品物件には使えない」などと、よく  客先の担当者から言われていました。あくまでワープロは作業用の道具で  最終的には和文タイプを打たせないと、ワープロの印字品質ではとても  使えないというわけです。この頃のプリンタはだいたいみんなドット・イ  ンパクト方式です。
 
 革命は低価格機から起きました。

 個人向けのワープロが手頃な価格で販売されるようになったのは1986年か  らではないかと思います。この年いくつかのメーカーから初めてフロッピ  ーを標準搭載したワープロが発売されました。私は個人的に色々な書類を  電子化したいと思っていたのと、当時、内心小説家を志していたことから  ワープロで小説を打ち込もうと思い、日本電気のmini5eを購入しました。

 このクラスのワープロは熱転写方式の印字機構を装備していました。私が  買った機種はまだ24ドットだったのですが、ワープロはその後あっという  間に36ドット、そして48ドットの機種が出ます。熱転写という簡単な印字  機構がその高品質の文字の印字を可能にしました。

 ドットインパクトではピンが紙を打たなければならないので、あまり密に  ピンを配置することができません。しかし熱転写の場合は触れればいいの  で、もっと正確にコントロールすることができます。ただ熱転写はリボン  の消費が激しいため、大量に文書を印字する必要のある企業ユースでは難  しかったと思います。そのため、1987〜1988年頃というのは個人用の15万  円の印刷機がきれいな文字を印字し、企業用の80万円の印字機はいまだに  24ドットという状況でした。

 企業の印刷環境が48ドット(約360dpi)に進化するのは低価格レーザープリ  ンタの登場を待たねばなりません。それまで目の玉が飛び出るような価格  をしていたレーザープリンタが50万円を切って、中小企業にも導入される  ようになるのは1988年頃からでした。
 
 しかしそのころ、個人ユースでは、新たな勢力が生まれようとしていまし  た。キャノンのバブル・ジェットの発売です。
 
 当時キャノンはパソコン用レーザープリンタの世界ではほとんどスタンダ  ードの地位を占めていましたが、個人のパソコン利用者の間ではエプソン  のプリンタが支配的でした。

 インクジェットプリンタが特に写真やイラストを美しく印字してくれるこ  とは知られていましたが、昔のインクジェットはやたらと目詰まりしやす  く、半月も放置するとパイプが詰まって印字できなくなるので個人向きで  はないと考えられていました。しかしここでキャノンは空泡でインクを飛  ばすという画期的なアイデアで、目詰まりしにくいインクジェットを発明  しました。

 そのころインクジェットでもうひとつあった個人向けのアプローチは、ど  うせ目詰まりするものなら、インクボトルとヘッドを一体化し、インクが  無くなったらヘッドも一緒に交換する、というものです。実は私はこのタ  イプのインクジェット(チノン製)を使っていました。

 いづれにせよ、キャノンのアイデアにより、インクジェットという新しい  選択肢がパソコン利用者の前に呈示されました。ここからプリンタのカラ  ー化がスタートします。そして今もまだ続いているキャノンとエプソンの  プリンタ戦争の歴史もここから始まるといっていいでしょう。

 なお、この頃は「カラーのディスプレイは不要だ。なぜならどうせプリン  タはモノクロなのだから」などという主張が堂々とされていた時期です。

 今では当たり前で誰も疑問に思わない、カラー画面とカラープリンタが普  及していくのは1990年代半ばを待たなければなりません。


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