バレエの歴史

↑

バレエの始まり

バレエは基本的にいえば、劇のセリフを踊りや身振りで代用したものです。そういう意味ではパントマイムと親戚関係にあるともいえます。しかしパントマイムが純粋に身振りに集中しているのに対して、バレエでは音楽が重要な要素であり、合わせて舞台・照明・効果などもあわせた総合芸術としての方向性を持っています。

バレエのルーツは古代ギリシャ時代の無言劇(シャレード)まで辿る考え方もありますが、通常中世イタリアの貴族の館で行われていた舞踏会が起源であるとされています。

その後、こういう踊りはフランス宮廷文化が栄えるのに連れてフランスで盛んになり、特に「太陽王」といわれたルイ14世は自らもバレエを踊り、1661年王立アカデミーを創設、まもなく建築されたパリ・オペラ座を舞台にして、数々のバレエが演じられました。「太陽王」という名前は元々、ルイ14世が劇の中で太陽の役を踊っていたからである、という説もあります。

ルイ14世の時代の踊り手の主体は貴族たちで、廷臣たちや貴婦人達が、豪華な衣装をつけてバレエを踊っていました。

ルイ14世がやがて年齢的なものから踊りを引退すると、その後は次第に職業舞踏家たちが現れて来ます。当初は男性の舞踏家ばかりで、女性ダンサーがいなかったため、男性の舞踏家が仮面を付けて踊ったりしていた時期もありますが、まもなく女性の職業舞踏家たちも現れてきます。そしてそれとともに、スートーリーのある物語構成で踊りが進行していくという「バレエ・ダクシオン」の時代が到来します。

ロマンティック・バレエ

17〜18世紀の女性の舞踏家たちは普通のヒールのある靴を履いて踊っていました。大雑把にいえば「ヴェルサイユのバラ」に出てくるような貴婦人風の衣装でそのまま踊っていたといってもいいでしょう。

ところがやがてここに一人の天才バレリーナが現れます。マリ・タリオーニ(1804-1884)です。彼女が1832年に初演したスコットランドの妖精物語「ラ・シルフィード」では、彼女はトウ(つま先)で立って踊る技法(ポワン)によって、妖精の軽やかさを表現しました。

ポワンの技法は以前はこのタリオーニによって開発されたと言われていましたが、現代では1815年頃から行われていたことが知られています。しかしこのタリオーニの「ラ・シルフィード」の成功は大きく、以後、バレリーナたちは競って、このつま先立つ踊り方をするようになりました。

これ以降、19世紀前半に確立したバレエの様式を「ロマンティック・バレエ」と呼んでおり、このころに標準的となったバレリーナの衣装が裾が長く円錐形に広がる「ロマンティック・チュチュ」です。そしてこの時代の代表作がこの「ラ・シルフィード」と「ジゼル」でしょう。

クラシック・バレエ

19世紀後半の帝政ロシア末期、政治的な行き詰まり感に反して宮廷文化は華麗な繁栄をみせていました。その頃、ペテルブルク(レニングラード)のマリインスキー劇場(現キーロフ劇場)を中心に活躍し、新しいスタイルのバレエを確立したのがマリウス・プティバ(1818-1910)でした。

プティバはチャイコフスキー作曲で「眠りの森の美女」「白鳥の湖」などの作品を成功させ、これらの作品の中で、現在のバレエの基本的な動き(ダンス・クラシック)が確立されました。この時代のバレエの様式を「クラシック・バレエ」と呼んでいます。そしてこの時代に確立したバレリーナの衣装は裾が短く傘のように広がった「クラシック・チュチュ」です。こういう衣装が生まれたのは、ロマンティック・チュチュではよく見えない、バレリーナの足の動きの美しさを見せたいためです。

プティバはもうひとつチャイコフスキー作曲で「くるみ割り人形」を書きましたが、残念ながら病気のため直接舞台を指導することができず、これは弟子のイワノフが担当しています。この3つを一般に「三大バレエ」と呼んでいますが、最後の「くるみ割り人形」だけは興行的に失敗だったようです。

なお、ロシアでこのマリインスキー劇場と現在に至るまでライバル関係にあるのがモスクワのボリショイ劇場です。「白鳥の湖」は実はボリショイで初演されています。しかし散々な成績で、そのためチャイコフスキーはバレエ音楽に自信を失ってしまいました。(黒鳥の32回転など激しい踊りを必要とする曲なのに若いプリマが事情で使えなかったなどの不運もあった)

しかしその13年後プティバに依頼されて久しぶりに書いた「眠りの森の美女」が成功したことで勇気づけられ、再度マリインスキー劇場でプティバ演出で再演。大成功をおさめたものです。

現在では「バレエといえば白鳥の湖」というイメージがありますが、これは実はたいへん難産の作品でした。

モダン・バレエ

20世紀に入ると、今度はまた新しい動きが出てきます。セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)や彼の弟子ミハイル・フォーキン(1880-1942)、ワスラフ・ニジンスキー(1889-1950)らは、ストーリーと関係ない群舞をやめるなど、それまでの形式を重んじたバレエから装飾的なものを取り去り、より物語の内容に重点をおいたバレエを始めました。

「薔薇の精」でダイナミックな跳躍を魅せ、続く「牧神の午後」では逆に全く飛ばずに踊ってみせた天才ニジンスキーは、バレエというものの幅を大きく広げてくれました。またフォーキンは逆にストーリー性の希薄な「レ・シルフィード」のような作品も発表して、抽象バレエへの道をも開き、ここでバレエは20世紀の世界的思想傾向を反映して、自由に限りなく自由になっていきます。

これが更にイサドラ・ダンカン(1878-1927)になると「バレエ」自体を否定。彼女はチュチュを脱ぎ、トゥシューズも捨てて、タイツも付けずに素足で踊り、バレエの基本的ステップも無視して、あらゆる束縛から解放された舞踏の世界を切り開きました。この傾向は「モダン・ダンス」と呼ばれています。

ただし現在ではモダンダンスとバレエは互いに影響しあいつつ発展しており、その間に境界線は無いとも言われています。


(C)copyright ffortune.net 1995-2016 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから