↑ 陰陽道略年表(編集中)
年代 できごと 人物
継体7
513.6
百済より五経博士・段楊爾が渡来。
欽明14
553.6
百済より医博士・易博士・暦博士が交代で来てくれることになる。
推古10
602.10
百済の僧・観勒が渡来し、暦の本、天文地理の本、遁甲方術の本を奉る。書生3〜4人を選んで観勒に付いて学ばせる。玉陳は暦法を学ぶ。大友村主高聡は天文遁甲を学ぶ。山背臣日立は方術を学ぶ。
推古12
604.4.3
聖徳太子が17条憲法を作る。17は陽の極数9と陰の極数8を足したものとされる。 聖徳太子
(574-622)
舒明4
632
僧旻が中国の陰陽五行術を直接日本に伝える。舒明天皇9年には大きな隕石があり、これを僧旻が「天狗である」と言った記述がある。「天狗」という言葉の初出である。
斉明6
660.5
皇太子・中大兄皇子(後の天智天皇)が初めて漏刻(水時計)を作った。
天智10
671.4.25
天皇が漏刻を正式に設置して鐘と鼓で時を報せることを始める。 天智天皇
(626-671)
天武元
672.6.24
壬申の乱に際して天武天皇が自ら式占を行い、勝利を予言した。天皇は天文や遁甲の術に長けていたと日本書紀に書かれている。 天武天皇
(?-686)
天武4
675.1.5
占星台(天文台のようなものが)が創設された。この時既に陰陽寮があったことが日本書紀に記載されている。
持統5
691.10
藤原宮の造成が始まる。都の場所の選定に風水思想が使用された。
和銅元
708.2.15
平城京に関する詔で「四禽図に叶い亀筮並びに従う」の言葉があり、四神相応の思想が見られる。
天平2
730.3
陰陽道の後継者育成のため、七人の博士に弟子を取って教えを伝えるよう詔が出る。
大同元
806
空海が唐より戻り、宿曜経を含む大量の仏教経典を日本にもたらした。宿曜経に書かれた七曜が当時の陰陽寮の上層部に注目され、公式の暦に記載されるようになる。 空海
(774-835)
延喜元
901.7.15
三善清行の上奏により辛酉革命思想に基づく改元が行われた。 三善清行
(847-918)
天徳4
960.9.23
平安の内裏が初めて炎上したが、この炎上を三善浄蔵(清行の子)が予言していた。火事で失われた刀を安倍晴明が再鋳造した。 安倍晴明
(921-1005)
仁安3
1168.6.22
六条天皇の方違えについて賀茂在憲・安倍泰親が意見を奏上している。 安倍泰親
(?-1183)
応仁元
1467
応仁の乱が勃発し、京都の陰陽師たちは各地へ退避。
永禄8
1565.10頃
賀茂宗家の在富が跡継ぎのないまま死去。賀茂宗家の断絶により安倍宗家の次男・有高が在富の養子となる。有高の子の久脩は伯父の有脩の養子となり、結局安倍・賀茂両家を一人で継ぐことになる。 安倍久脩
(1562-1625)
文禄4
1595.7
関白豊臣秀次が秀吉により切腹させられその子女が虐殺される。この時秀次に近かった安倍久脩は巻き添えを食って尾張国へ追放され、賀茂・安倍両家に伝わる貴重な資料が散逸した。また京都にいた多くの陰陽師・萬歳師たちが追放されたり強制労働に駆り出されたりした。この時久脩とともに尾張に行った萬歳師たちが尾張萬歳の祖、隣の三河に行った人たちは三河萬歳の祖となった。
慶長5
1600.8.15
関ヶ原の戦いで徳川が勝利し、安倍久脩も名誉回復して京都に戻る。
貞享元
1684.10.29
渋川春海が安倍泰福の協力を得て新しい暦を作り、この日採用決定。初めての日本独自の暦である。 渋川春海
(1639-1715)
明治3
1870.2.22
暦の作成は明治政府の星学局に移管されることになり、土御門家の手を離れる。同年宮中の祭祀などからも陰陽道は消滅した。安倍晴栄は貴族院議員に。
昭和21
1946.5.21
藤田乾堂が土御門家の本拠地・名田庄で土御門神道を復興し、宗教法人として活動を再開する。

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