↑ ■陰陽道

陰陽道の歴史

陰陽道(おんみょうどう)とは、狭い意味では奈良時代・平安時代の宮中・陰陽寮(おんみょうりょう)で管理されていた各種の技法で、天文・暦・計時・祈祷・卜占・薬事などに関する各種の技術の総称をいいます。この陰陽寮というのは現代日本でいえば東京大学のようなもの、と思ってもらった方がよいでしょう。

しかし陰陽道の色々な手法は原則として外部への持ち出しを禁じていたにも関わらず当時も民間に流出していましたし、室町時代以降は朝廷の懐具合が悪くなって陰陽寮は衰退し、陰陽道の手法が使われるのは民間の方がメインになりました。

その中で中心になったのは陰陽道の責任者を何人も輩出した賀茂・安倍の両家です。後に賀茂家の方は断絶してしまいましたので、その後は安倍家(土御門家)が全国陰陽師の総支配の地位を得て、陰陽師の免状の発行を行いました。この土御門家は現在福井県名田庄村に土御門神社本庁の名称で存続しています。

陰陽五行思想と陰陽道

陰陽五行思想とは、中国古来の思想で、世界を陰と陽、及び木火土金水の五行に分類して把握する思想をいいます。「陰陽道」の語源もここに由来しますが、陰陽五行思想と陰陽道はあまり関係ないと言った方がいいでしょう。これはあくまで陰陽道の基本思想のひとつにすぎません。

陰陽道の中には、天文学、暦学、時間を測定する技法、風水思想、遁甲、道教や仏教由来の呪法、八卦(易)思想、神道由来の卜占術、医学、薬学、など実にいろいろな要素が含まれています。

安倍晴明

陰陽道を行うものを陰陽師(おんみょうじ)といいます。この陰陽師が多数出た中でも、特に名手とうたわれたのが土御門家の祖とされる安倍晴明(あべのせいめい)です。

安倍家は家伝によれば孝元天皇の子孫で右大臣や天皇妃などを出したこともありますが、晴明の頃には衰微して宮中の料理を扱う下級役人の家柄になっていました。しかし晴明は当時の陰陽頭である賀茂忠行に師事して頭角をあらわしました。忠行の息子の賀茂保憲はそれまで賀茂家で独占していた陰陽道の奥義の内、天文道を晴明およびその子孫に譲り、賀茂家では暦道の方を管理していくことにします。

安倍晴明は後世にいろいろな伝説が作られ、それを信じてしまうと晴明はまるでスーパーマンか超能力者という感じです。母は狐であるという伝説、晴明の家の蔀(しとみ−雨戸のようなもの)は人がいなくても上下していたとか、熊野で長年修行した行者であるとか、呪殺されようとしている人を一晩中抱きしめて守りきったとか、いろいろです。

岡野玲子氏は晴明の母がキツネであるという伝説は、実は「橘女−橘家(きつけ)の女(め)」というのが誤って伝えられたのではないか、という推理をしています。安倍家が本当に天皇家の子孫であれば、橘家のような名家の流れをくむ人との婚姻は考えられないことでもありませんし、晴明の邸宅は都でも一等地にあり、有力者の後ろ盾があったことも示唆しています。

方違え(かたたがえ)

陰陽道は初期の頃にはかなりアカデミックなものでしたが、後にはどちらかというとオカルト的傾向が強くなってきます。その中で平安時代以降にずいぶん行われたものとして「方違え」があります。

方違えを起こす神は何種類かありますが、基本的にはその神のいる方角を犯さないようにする(その方向への移動やその方向での工事などを控える)ことで行われます。しかし工事は休むにしても移動は仕事があればそちらへ行かなければならないですし、そちらに家があったら帰らない訳にはいきません。

そのため、いったん別の方角に向かって出発し、どこかで一泊してから翌朝目的地に向かうということが行われました。これが方違えと呼ばれるものです。

右の図で出発点から目的地に行こうとするとその向かう方角に神様がいるという場合、これを避けて上の方の宿泊地に向い、翌日宿泊地から目的地に向かいます。するとどちらの移動も、その先には神様がいないので方位を犯さないことになります。

源氏物語で光源氏が方違えを理由にして女を訪ねていく話があります。実際には方違えというのは、そのように自分のしたいことの理由作りに使われた面もあるようです。

平安時代後期になるとこういうことは次第に面倒くさくなって、もっと楽な方法がとられるようになっていきます。

反閇(へんばい)

反閇(へんばい)とは、特殊な足の運び方によって悪鬼を退け吉神を呼び込むための手法です。道教起源のものとされ、現在の相撲のシコもこれに由来するものといわれます。

土御門家ではこの反閇を行うときに九字(修験道の項参照)を唱えますが、この場合通常の九字「臨兵闘者皆陣列在前」ではなく「朱雀、玄武、白虎、勾陣、帝禹、文王、三台、玉女、青竜」と唱えました。

式神(しきがみ)

安倍晴明は式神の使い手でした。式神と一般に言われているものには二通りのものがあります。ひとつは紙で作った人形(ひとがた)や木や絵の精霊に人の姿をさせて駆使するもの、もうひとつは十二神将(薬師如来の十二神将とは別)に対応した精霊を駆使するものです。狭い意味では後者のみを式神といいます。

式神に関して詳しいことはここでは控えておきます。

萬歳(まんざい)

萬歳とはもともと祝福の舞いのことで、陰陽師配下の萬歳師たちが、めでたい席で舞っていました。室町時代頃までは京都周辺に多く住んでいましたが、豊臣秀吉が萬歳師たちを下等の民とみなして、京都から追放。このため、萬歳師たちは尾張・三河などに移動して、それぞれ尾張萬歳・三河萬歳の祖となります。

明治時代に出た河内音頭の玉子家円辰は自分の芸の中にこの萬歳の要素を取り入れ明治38年「名古屋万歳」を創設しました。彼の芸は非常に人気となり、類似の芸を行う人々が多く出ました。そして昭和5年、吉本興業と松竹が万歳合戦をやった時、吉本興業の宣伝部長・橋本鉄彦氏が「万歳」に代えて「漫才」という当て字を発明。以後「漫才」という言葉が定着ました。

そういう意味では、ウリナリ、ダウンタウン、ネプチューン、ロンドンブーツなどは陰陽師の末裔でもあります。彼らは人々に笑いをもたらしますが、笑いというのは古来より強力な破邪の法とされました。このため十一面観音の隠れた後ろ向きの顔は破顔一笑しています。従って、現在のコントの人たちがやっていることは内容的にも確かに陰陽師の仕事の末裔です。

計時

日本は農業と漁業をその中核産業としていましたので、明治時代初期まで正式に使用され、現在は「旧暦」の名前で残っている太陰太陽暦は、その両者にとって便利な実用性の高い暦でした。

この暦を編集するには精度の高い天文観測が必要です。精度の高い天文観測をするためには精度の高い時刻の把握が必要です。そういう訳で、時刻を測るということは陰陽寮の仕事の中でも特に重要な作業のひとつでした。

陰陽寮では奈良時代以来、水時計を使って時を測り、2時間に1度太鼓で時報を行っていました。冬には凍結しないように炭火を焚いて水時計を暖めていたようです。大事な仕事なので、その太鼓を打ち忘れたり打ち間違った場合、給与カット、出勤停止、停職など厳しい処分が行われたようです。

陰陽寮では基本的に現代と同じような定時法(時刻の単位が変動しない)を使っていましたが、このような正確な時計を持たない田舎では、日時計などによって不定時法(昼と夜をそれぞれ等分して時刻を定める)が行われていました。後に戦国時代になると、すっかり不定時法が幅を利かせ、江戸時代になると機械式の正確な時計があったのに、わざわざ文字盤を交換して不定時法にもとづく時報を行っていたようです。日本人というのは妙なところに精度を求めますが、妙なところは抜けているようです。

なお、日時計は土圭(どけい)と呼ばれていて、これが「とけい」という言葉の語源ではないか、とも言われています。確かに「時計」を「とけい」とは音読不能なので(音読すれば「じけい」としか読めない)、当て字であることは間違いありません。

↑


(C)copyright ffortune.net 1995-2013 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから