↑ 晴明以前の安倍家の人々
【系図】
孝元天皇─大彦命─建沼河別命─豊韓別命─雷別命─阿加子宿禰─稚子豆─大龍臣─忍国臣─

 忍国臣─大麻呂臣┬鳥子臣─阿倍倉橋麿(阿倍氏祖)─
         │
         └目臣─┬阿倍比羅夫─安麿─小島─家麿─富麿─宅良─頼良─阿倍貞任
             │
             └阿倍船守──阿倍仲麻呂
 
 阿倍倉橋麿─┬阿倍御主人─廣庭┬嶋麿┬粳虫─道守─兄雄─春材─益材─安倍晴明─
       │        │  └吉人
       │        └毛人─大家
       ├小足媛
       │ ‖───有馬皇子(有馬皇子の変で殺害さる)
       │孝徳天皇
       │
       └橘娘
        ‖────新田部皇女
        天智天皇   ‖───舎人親王(日本書紀の編纂者)
             天武天皇

 ※なお系図は異説が多い。比羅夫・船守と倉橋麿を兄弟とする説も。その場合
  阿倍姓を最初に名乗ったのは彼らの父かも知れない。なお彼ら以前の大彦命
  からの系図についても代数が極端に違う異説もあり、よく分からない。
大彦命(おおひこ)・建沼河別命(たけぬまかわわけ)
 親子で崇神天皇から四道将軍に任じられ、大和朝廷の勢力を全国に波及させるのに尽力する。大彦命は北陸に、建沼河別命は東海に派遣されて、両者は東北地方南部で合流する。その場所が「あひづ」つまり今の会津である。

 また大彦命は町で聞いた少女のわざ歌から武埴安彦の反乱の予兆を知り、それによって天皇側も対抗策を練ることができた。

阿倍比羅夫(ひらふ)
 飛鳥時代の将軍。斉明天皇4年(658)4月、180艘の大船団を率いて蝦夷征伐を行っている。秋田・能代の一族は最初から降伏し、船団は秋田湾で休憩を取ってから渡島(渡島半島??)にまで軍を進めている。大彦命たちが会津まで行っているし、この比羅夫の系統から下に述べる貞任が出ているので、そもそも阿倍家というのは東国更には東北地方に元々地盤を持っていたのかも知れない。

 比羅夫は斉明天皇没後の天智天皇称政時代に他の将軍たちと共に軍を率いて朝鮮半島に渡り、百済を支援している。その後の白村江(はくすきのえ)の戦いでは後軍に入っていたため、到着前に戦闘が終わってしまったのではないかと思われる。なお、その後太宰帥に任じられたという情報があるがまだ文献未確認。

阿倍貞任(さだとう)
 彼は晴明よりも後の人(1019-1062)だが便宜上、ここにあげておく。前九年の役(1051-1062)を起こした人で源頼義らにより討ち取られた。この時点でこの「武家阿倍家」は東北方面にかなりの地盤を築いていたようであり、中には明治維新の時まで続いた家柄もある。

阿倍仲麻呂
 698-770。遣唐使として唐に渡り、現地で科挙に合格して玄宗皇帝に仕えた。重用されてなかなか帰国の許しが出ず、753年の遣唐使団の帰国に際して、中国側の同行役人として一時帰国が認められたが、この船は暴風雨のため中国に流され戻ってしまい、結局最後まで日本の土を踏むことができなかった。

 仲麻呂が唐に渡った時の船に一緒に乗っていたのが陰陽道の大家としても有名な文官政治家・吉備真備(きびのまきび)で、唐の現地ではこの二人が留学生の中でも特に高く評価され、何かとライバル視されたようである。真備が帰国する際、仲麻呂は唐で学んで記した色々な資料を彼に託して生家の阿倍家に届けてもらったといわれ、あるいはこれが阿倍家が陰陽道と関わることになった最初なのかも知れない。

阿倍倉橋麻呂(内麻呂)
 ?-649。倉橋麻呂あるいは内麻呂という。聖徳太子や蘇我蝦夷らと同世代の政治家と思われ『日出処天子』でも若いのに老獪な人物として描かれている。同書では自分の妹を蘇我入鹿の育ての親にすることに成功したように書かれていた。

 大化改新後の新政府の左大臣に任じられており、彼の巧みな政治能力が伺い知れる。この時内臣はもちろん中臣鎌足であるが、大化改新に大きな功績のある蘇我倉山田石川麻呂が彼より下位の右大臣なのである。

 二人の娘を孝徳天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)に嫁がせるという「どちらが生き残っても平気」という戦略を採っているのもすごい。結果的には孝徳天皇の子の有馬皇子は天皇没後すぐに粛正されてしまった(有馬皇子の変)し、天智天皇側では女の子が二人産まれただけで、残念ながら天皇の外戚になるプランは実現しなかった。

しかしその天智天皇側の娘である新田部皇女が更に天武天皇に嫁いで、日本書紀の編纂者となる舎人親王を産んでいる。つまり阿倍家の人間が、日本最初の公式の歴史書の編纂責任者になっていたのである。これもまた凄いことである。

阿倍御主人(みうし)
 635-703。倉橋麻呂の子で、文武天皇の時に右大臣を務めた。彼は竹取物語の登場人物として知られている。竹取物語で実在の人物が出ているのは彼と大納言・大伴御行の二人だけである。道教的な背景も持つこの物語に阿倍家の人間が関わっているというの面白い。

 竹取物語の中では火鼠の皮衣を取ってきてくれるよう、かぐや姫に依頼される。唐に行く小野房守という人に依頼して買い求めるが、入手した皮衣をかぐや姫の所に持参すると、火を付けるとあっけなく燃えてしまった。ニセモノをつかまされてしまった訳である。

阿倍吉人・大家
 この二人のことについてはよく分かっていないのだが、晴明より数代前の人で、なんとこの二人とも陰陽頭に任じられているのである。つまり、一般には安倍晴明から安倍家と陰陽道は関わり始めたようにとらえられているのだが、実はそれ以前にも安倍家の人間で陰陽寮に勤めていた人はいたわけである。

 ただそれは随分前のことだから、ここから直接晴明への関わりはないだろう。

安倍益材(ますき)
 安倍晴明の父である。晴明の父の名前は『信田妻』では保名(やすな)になっているが、実際には益材(ますき)で正解である。大膳大夫。つまり天皇の食事に関する仕事をしていたのだが、そもそもそういう仕事は安倍家の本来の仕事であるともいわれる。つまりもともと「あべ」というのは「あへ(饗え)」の意味だというのである。そういう意味では、どこかで聖徳太子の最愛の妻に関わる膳部(かしわで)氏などとも関わりがあるのかも知れない。


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