sinwa(4)黄泉の国

さて、伊邪那美神(いざなみのかみ)が火の神を産んだことから火傷で亡くなってしまった後、その亡き妻を忘れられない伊邪那岐神(いざなぎのかみ)は、やがて黄泉の国(よみのくに)(死後の世界)まで伊邪那美神(いざなみのかみ)を訪ねていくことにします。そしてまっ暗な中で「愛しいわが妻よ、国作りはまだ終っていない。どうか私の所へ戻って来てくれ」と言いました。すると伊邪那美神は「こんな所まで追いかけて来てくれたのね。私も帰りたいわ。黄泉の国の神に相談してみます。ちょっと待ってて」と言います。

それから伊邪那岐神(いざなぎのかみ)はずっと待っていますが、なかなか伊邪那美神(いざなみのかみ)は出てきません。そこで待ちくたびれて、ふと火を灯して様子を見ようとしました。

すると、そこに居た伊邪那美神(いざなみのかみ)はすっかり姿が変わり果てていて、体にはウジがたかり、体のあちこちには雷神が生じていました。その姿にびっくりした伊邪那岐神(いざなぎのかみ)は慌てて逃げ出してしまいます。

恥ずかしい所を見られたことに気付いた伊邪那美神(いざなみのかみ)は怒って、黄泉の国の醜女に後を追わせます。すると伊邪那岐神(いざなぎのかみ)は黒御縵を投げ捨てるとそこに蒲子が生じたので醜女がそれを食べている間に逃げます。そのうちまた醜女が追い付いて来たので、今度はゆつつま櫛を投げ捨てるとタケノコが生えたので、醜女がそれを食べている間に逃げます。そこへ今度は伊邪那美神(いざなみのかみ)の体にわいていた雷神が追いかけて来ました。その時黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本という所に来ていましたが、そこに桃の木があったので桃の実を取って投げ付けると雷神は退きました。

そうこうする内に伊邪那美神(いざなみのかみ)本人も追い付いて来ましたが、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)黄泉比良坂(よもつひらさか)に大きな石を置いて、こちらへ来れないようにしてしまいます。すると伊邪那美神(いざなみのかみ)は「愛しているあなたがこんなことをするなんて。ひどいわ。私は貴方の国の人を毎日千人殺してあげる」といいます。すると伊邪那岐神(いざなぎのかみ)は答えて「私はお前を愛してる。でもお前がそうするのなら、この国に毎日千五百人の人が生まれるようにしよう」と言いました。この後伊邪那美神(いざなみのかみ)黄泉の国(よみのくに)の大神となったといいます。

なお、この伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)黄泉比良坂(よもつひらさか)で話をする時、日本書紀(にほんしょき)の一書ではふたりの娘である菊理媛(くくりひめ)白山神社(はくさんじんじゃ)の御祭神)が両神の仲介のようなことをしています。菊理媛(くくりひめ)の名前はここだけに出てきます。

さて、黄泉の国から戻った伊邪那岐神(いざなぎのかみ)は「汚らわしい国に行って来たなぁ」と言って、日向の国の橘の小門の阿波岐原でみそぎをしました。その時、投げ捨てた衣等などからたくさんの神様が成り、またみそぎをしようとして神々が成ります。これは次の神々です。

衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)時量師神(ときはかしのかみ)和豆良比能宇斯能神(わずらいのうしのかみ)道俣神(ちまたのかみ)飽咋之宇斯神(あきぐいのうしのかみ)奥疎神(おきざかるのかみ)奥津那芸佐毘古神(おきつなぎさびこのかみ)奥津甲斐弁羅神(おきつかいべらのかみ)辺疎神(へざかるのかみ)辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)辺津甲斐弁羅神(へつかいべらのかみ)(ここまで12神)、八十禍津日神(やそまがついのかみ)大禍津日神(おおまがついのかみ)(ここまで2神)、神直毘神(かむなおいのかみ)大直毘神(おおなおいのかみ)伊豆能売(いづのめ)(ここまで3神)。

更に、水の中でみそぎをしている最中に次の神々が生まれます。

安曇一族の神である底津綿津見神(そこつわだつみのかみ)中津綿津見神(なかつわだつみのかみ)上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)
住吉三神の底筒之男神(そこつつのおのみかみ)中筒之男神(なかつつのおのかみ)上筒之男神(うわつつのおのかみ)です。

そして、最後に左目を洗った時に天照大御神(あまてらすおおみかみ)
右目を洗った時に月読命(つくよみのみこと)
そして鼻を洗った時に須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれます。
これを三貴子と言います。

伊邪那岐神は「これは最後にとてもいい子が生まれた」と言って喜び、天照大御神には高天原を、月読命には夜を、須佐之男命には海を統治するように指示して、「淡海の多賀」に引き籠もりました。

物語は次にこの子供たちの世代へと移っていきます。

なお伊邪那岐神が引き篭った「淡海の多賀」ですが、これに関しては「おうみ」つまり近江という説(多賀大社(たがたいしゃ))と、淡路島という説(伊奘諾神社(いざなぎじんじゃ))があります。

江戸時代には多賀大社は伊勢信仰とセットで篤く信仰されました。「お伊勢参らば多賀にも参れ。お伊勢お多賀の子でござる」という歌があります。



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