ワールドカップまでの日本の道のり

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ワールドカップまでの日本の道のり



●始まりは勘違い

日本にサッカーが伝えられたのは1873年である。海軍兵学校のイギリス士官、ダグラス少佐らが生徒たちにサッカーを教えた記録が残っている。イギリスにサッカー協会が設立されて間もない時期であったが、ここからの日本のサッカーの歩みは遅かった。

ようやく1918年になって大阪・名古屋・東京でそれぞれ全国規模のサッカー大会が開かれた。この3大会はそれぞれ独立して開催されたものであったが、これを外電が誤報した。「日本でもサッカー協会が設立されて全日本選手権の予選が開かれた」と報じたのである。

その報道を見たイギリスのサッカー協会は「日本のような極東の僻地にもサッカー協会ができたとは」と喜び、さっそく立派なカップを作って日本に送ってきた。それが届いたのを見た日本のサッカー関係者は困惑したものの、やはりちゃんと組織を作ろうということになり、1921年「大日本蹴球協会」を設立するに至るのである。

●ベルリンの奇跡

1936年のベルリン・オリンピック。日本は初めて国際大会に選手団を送り出した。当時は社会人のリーグはまだまだないので、このチームは早稲田大学の学生を主体としたチームであった。その当時日本はまだ50年くらい前の流儀の2バックシステムであった。ところが現地へ行って他のチームの試合を見ていると、どこもディフェンダーが3人いる。「え?ディフェンダーって3人置くものなの?」ということになって急遽3バックに変更したという頼りない状態であった。

ところがその頼りないチームが8月4日の初戦で優勝候補のスウェーデンと当たり、なんと3対2で勝ってしまったのである。これを『ベルリンの奇跡』とよび、日本あなどるべからずの報が世界を駆けめぐったのであった。

なお、この日本代表は2回戦ではイタリアに8対0で敗れて、実力以前のレベルの差を感じさせられることになる。

●神宮の悲劇

日本がワールドカップに初めて挑戦したのは1954年大会のことである。この時アジアの枠は1であったが、これを韓国と日本で争うことになり、決戦は同年3月7日・14日東京神宮で行われた。

この時下馬評は日本断然有利で、それを裏付けるようにまずはFW長沼健(現JFA会長)のシュートが韓国のゴールマウスを揺らした。ところがここから『神宮の悲劇』が始まった。

おりから東京は数日続きの雪でグラウンドは泥んこ状態であった。GK村岡博人がシュートをセーブして泥だらけになる度に控えの平木隆三(現名古屋グランパス・スタッフ)が顔をぬぐいに走った。相手にスライディングタックルしたDF山路修はずぶぬれになって極寒の中凍死するかと思わんばかりの寒さを覚え、動きが鈍くなった。その鈍ったDFを抜いて身体能力に勝る韓国選手がシュートを放つ。終わってみれば1−5。信じがたい惨敗であった。

竹腰重丸監督率いる日本は7日後逆転を狙ってメンバーを大幅に入れ替えて2戦目に挑む。しかしうまさで圧倒する日本よりも、折角のチャンスに是が非でも本戦に行くんだという意志と、この機会に日本占領時代の怨みを晴らしてやるという思いが日本を上回り、韓国はこの2戦目を2−2の引き分けに持ち込む。こうして日本は韓国の前に屈してW杯への最初の挑戦に失敗した。そうしてその後韓国は40年間にわたって日本の前に立ちはだかり続けることになるのである。

●アルゼンチンに勝った!!

10年後東京オリンピック。日本はなかなか世界のレベルに追いつけない状態の解消をめざし、ドイツのデットマール・クラマーをコーチとして招聘、日本代表に新しい理論に基づく強化を行った。

その成果が出て1964年10月14日、予選リーグで日本は強豪アルゼンチンを3対2で破る快挙を成し遂げる。この時のゴールは1点目・杉山隆一(現ジュビロ磐田・スタッフ)、2点目川淵三郎(現Jリーグチェアマン)、3点目小城得達である。釜本邦茂が2点目のアシストをしている。

なお、このあと日本は次のガーナ戦を2−3で落としたものの決勝トーナメントに進出。ここでチェコスロバキアに0−4で敗退した。

この試合のあと、3得点全部に絡んだ杉山隆一はアルゼンチンのプロチームから誘いを受けるが、監督の長沼健が本人に告げないまま断ってしまったという。

●大健闘・メダル獲得!

4年後のメキシコ・オリンピック。この頃は日本のサッカー史上、最近を除いてはもっとも国民的にサッカー熱が高くなった時代であった。

この時の日本チームには日本史上最強のFW釜本がいた。彼の力で日本はオリンピック予選リーグの初戦ナイジェリアに勝ちブラジルと引き分け、第三戦のスペイン戦に臨む。この時日本はもちろんスペインにも勝って決勝トーナメント進出を決めるつもりであった。ところが。。。

この同じ時刻にブラジルとナイジェリアの試合が行われていた。この試合後半20分が過ぎた時点でブラジルがナイジェリアに1−3でリードされていた。日本とスペインは0対0のままである。そのブラジル戦の戦況を聞いた長沼健監督はブラジルの勝ちはないと判断して、史上稀に見る奇妙な指示を選手に出した。『点を取るな。引き分けろ!ただし絶対に点を取られてはいけない!』というものである。

つまり、この試合に勝ってしまうと日本は予選リーグをトップで通過し、決勝トーナメントではメキシコに当たることになる。ところがこの試合引き分ければ2位になって、やはり決勝トーナメントに進めるが当たる相手はフランスである。そしてこの試合を落とすと3位になって決勝トーナメントに進めない。当たる相手としてメキシコよりフランスに当たった方が断然有利なので、こういう奇妙な指示が出たのである。

しかし、こんな訳の分からない指示をいきなり出されて選手が納得するわけがない。選手たちは監督の言葉に逆らい、発奮してシュートを打ったが、発奮しすぎて精度を欠き、結局長沼監督の思惑通りこの試合引き分けることができた。

こうして日本は決勝トーナメントに駒を進め、フランスに予定通り勝つが準決勝でハンガリーに破れ3位決定戦に回る。相手は問題のメキシコであったが釜本の2得点で勝つことができ、銅メダルを獲得するに至った。

●釜本も病気に泣く

釜本を擁する日本は1970年のW杯には今度こそ行けると確信していた。ところが予選前になって釜本が病気のため出場できなくなつてしまう。エースを欠く日本は結局オーストラリアと韓国に2敗2分けで本戦出場はならなかった。1974年大会の予選では南ベトナムにW杯予選史上初めての勝利を得るが、やはり1勝3敗で本戦出場はならなかった。このころから東京・メキシコ五輪のメンバーに続く代表選手がかなり不作な状態が続き、日本国内のサッカー熱もどんどん衰えていく。社会人のサッカーリーグもレベルが低いままの状態に甘んじていた。

1980年前後からまた少し風が吹き始めた。1977年奥寺康彦が日本人として初めてのプロサッカー選手となってドイツのリーグで活躍しはじめた。同じ年ブラジルから一人の青年が讀賣クラブに参加する為にやってきた。ラモスである。1982年スペイン大会のW杯予選は川淵三郎が指揮を取り2勝2敗と健闘した。この最終戦は北朝鮮に延長戦の末惜しくも敗れたものである。この時本戦に出場できなかったものの日本代表はJFAが会期に合わせてスペイン合宿を組んだため、その本戦の様子を観戦することができた。ここで木村和司らは高度な世界のレベルを肌で感じることができ大いに刺激される。また三浦知良が単身ブラジルに渡ったのもこの1982年であった。

●「伝説のフリーキック」も及ばず

続く1986年大会。日本代表を率いたのは森孝慈(後のレッズ監督・アビスパ監督)である。日本は一次予選を北朝鮮・シンガポール相手に3勝1分で通過して最終予選に挑む。そして香港に2勝して東京国立に宿敵韓国を迎える。日本は序盤試合を支配したが韓国に立て続けに2点取られてしまった。しかし日本は前半終了直前ゴールから30mほどの距離でフリーキックを得る。これを木村和司が芸術的に直接ゴールに叩き込んで日本は1点取り返す。これが「伝説のフリーキック」である。木村はこれが前半終了間際ではなく後半最初であったら日本は勢いづいていたろうにと悔しがる。後半両者とも得点ならず結局日本はまたまた韓国に1−2で負けてしまう。そして続くソウルでの最終戦も落としてしまい、またW杯初出場の夢は消えたのである。

●Jリーグ創設とオフト監督

1988年日本は奥寺康彦の帰国・古河電工(現ジェフ市原)とのプロ契約に刺激されてプロリーグ創設へと動き出す。最初反対の立場に立っていたものの最終的には陣頭指揮することになるのが川淵三郎である。その準備が進む中1990年大会の予選は2勝1敗3分と健闘したがやはり本戦に1歩及ばなかった。一方でプロリーグは『Jリーグ』と命名され91年2月に参加チームが発表された。

その91年秋川淵はヨーロッパ視察中に一人のオランダ人と出会う。マリウス・ヨハン・オフトである。川淵は今の日本には指導のプロが必要であると感じていた。オランダのプロリーグを指導していたオフトを川淵は口説き落として日本代表の監督として招聘した。

オフトはただちに実力のある選手を見抜いて抜擢、その選手たちに新しい理論であるゾーンプレスを教える。このオフト監督が就任してから日本代表は生まれ変わった。それまで1勝もできていなかったダイナスティ杯でいきなり優勝。アジア杯にも優勝して93年のW杯予選も順当に勝ち進んでいった。しかしそこに落とし穴が待ちかまえていた。

●ドーハの悲劇

1993年に行われたこの予選、日本は一次予選をタイ・バングラデシュ・スリランカ・UAEに7勝1分けで軽く通過して、直後のJリーグ開幕を祝福した。川淵は日本楽勝と読んで、この一次予選通過をJリーグの追い風にしようと目論んだのである。そしてそれはまんまと成功した。

最終予選、日本はサウジアラビアに引き分け、続くイランに敗戦していきなり土壇場に追い込まれてしまった。今度もまたダメか。。。とあきらめが日本を支配した。しかしこのイラン戦で執念の1点をもぎ取った中山雅史のゴールが日本選手に活力を吹き込んでいた。続く北朝鮮と韓国に連勝してあと1勝すれば本戦出場を決めるというところまでたどりついた。

最終戦の相手はイラク。舞台はカタールのドーハ。アルアリ・スタジアム。日本は三浦知良と中山雅史のゴールで2−1とリード、刻一刻と終了時刻が迫ってきた。時計はもう後半の45分を過ぎてロスタイムに入っている。ここでイラクはコーナーキックを得た。もう時間はほとんど残っていない筈であった。日本はここを守りきれば念願のW杯本戦出場を決めることができた。しかし。

センタリングされたボールがニアポスト付近に来る。そこにイラクのFWオムラムがヘディングを合わせる。ゴールキーパーの松永成立も全く反応できない見事なゴールであった。

この試合日本が2−2で引き分けたため同じ勝点ではあるが得失点差で上回る韓国が逆転の本戦出場を決めたのである。

選手たちはみなショックでピッチに座り込んでしまった。もう立ち上がる気力も残っていなかった。TV観戦していた日本のサッカーファンたちもみな言葉を失って凍りついていた。

●加茂監督解任

4年後日本は加茂周監督の元、再びW杯に挑戦していた。Jリーグ開幕の頃とは違って国内のサッカー熱は完全に冷めていた。しかしその中日本代表は一次予選を5勝1分で乗り切って最終予選に駒を進めた。

ここで日本サッカー協会の一部で加茂監督の采配に疑問を呈する意見が出ていた。しかし長沼健JFA会長は「加茂を辞めさせるなら自分もJFA会長を辞める」といって加茂の続投を支持した。

最終予選の第1戦対ウズベキスタン。ウズベキスタンは前日に東京についたばかりという最悪のコンディション。日本はそれに乗じて三浦知良の4ゴールの大活躍などで6−3で圧勝した。しかし続くUAE戦で暗雲立ちこめる引き分け。そして東京に韓国を迎えた。

この試合日本は韓国に1−0でリードしていた。ここで加茂監督は守備を固めるため、活躍していたFW呂比須に変えてDFの秋田を投入。ところがこれが完全に裏目に出た。秋田がマークするように指示された韓国の選手も交替してしまったため誰が誰をマークするのかディフェンス陣は混乱。その混乱に乗じて韓国は2点連取して日本は悪夢の逆転負けを喫してしまう。

嫌なムードが漂う中、日本はアウェイに出かけ、カザフスタンと4戦目を戦う。この試合日本は1−0でリードしていた。ところが4年前のドーハの悲劇を思い出させるかのようにロスタイムに失点して引き分けになってしまった。またダメか??日本全体が暗い空気に包まれる。

ここで、日本サッカー協会は加茂監督を電撃的に解任するというショック療法を行った。後任の監督については全く空白であったが、岡田武史コーチが暫定的に監督に昇格して次のウズベキスタン戦以降を指揮することになった。(ちなみに加茂を解任しても長沼は辞任しなかった。ようやくWカップ終了後に辞任)

●ジョホールバルの歓喜

岡田武史は自分には無理だと断ろうとしたが、とにかく日本から新たな人物を派遣するにもビザの関係で間に合わないから、とりあえず次の試合だけでもと言われ「では次の試合勝ったら続けますが、負けたら辞めますので」と言いその条件で引き受けた。しかし次のウズベキスタン戦は引き分けてしまった。「どうしましょう?」と日本にいるJFA幹部と協議する岡田であったが、チームの雰囲気がいいからそのまま最終予選の間は行って欲しいという要請を岡田は受諾。最終予選終了まで監督を続けることにした。

続くUAE戦。日本はまたまた引き分けてしまう。この引き分けで本戦への出場はほぼ絶望になった。しかしドラマはまだまだ予定されていた。

ほとんど絶望状態のまま日本はソウルで韓国との2戦目を行った。韓国での日韓戦はここ13年日本は勝っていない。しかしその厳しい状況の中、日本は2−0で勝利したのである。首の皮1枚本戦への夢がつながった。しかしこの試合で日本の2トップ三浦知良と呂比須ワグナーが累積警告で次の試合に出場できない絶体絶命の事態にさらされた。

ここで急遽起用されたのが国内で行われている天皇杯で活躍していた中山雅史であった。彼は次のカザフスタン戦で見事に期待に応えてゴール。このとき自分のユニフォームの下に実は今日出られなかった三浦知良のユニフォームを重ね着していたことをアピールしたのであった。この試合日本が勝って、日本はイランとの第三代表決定戦に進むことになる。

そしてこの最後の試合はマレーシアのジョホールバルで行われた。試合はまず中山が先制のゴールを決めたがイランに立て続けに2点取られて逆転されてしまう。ここで岡田監督は思い切って三浦・中山の2トップをまるごと城彰二・呂比須ワグナーに変える作戦に出た。この時交替を告げられた三浦の「え?自分を替えるんですか?」といったような顔が印象的であった。彼はこの最終予選初戦で4点取ったもののその後全く点が取れない絶不調に陥っていた。この交替劇は大成功で城が殊勲の同点ゴール。日本は残り14分のところでイランに追いついた。

そして延長戦に入って岡田監督は更にMF北澤豪に変えて俊足のFW岡野雅行を投入、彼が中田のミドルシュートをキーパーが弾いたところにすかさず飛び込んで押し込みVゴール。日本人サポーターは歓喜に包まれた。この試合の3得点を全て演出したMF中田英寿の株は一気に上がり、彼は世界選抜の一員に抜てきされることになる。 ↑


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