ワールドカップの歴代ヒーローたち

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ワールドカップの歴代ヒーローたち



●「王様」ペレ

1940年10月23日ブラジルのトレスコラソンエス生まれ。本名エドソン・アランテス・ナシメント。サッカー史上に輝く大天才である。「王様」とも「神様」とも呼ばれた。家が貧しかったのでサッカーボールがなく新聞紙をまるめて蹴って遊んでいたという。靴もなかった。「ペレ」とは「裸足」という意味である。

13歳で名門プロチーム「サントス」と契約、16歳で得点王になって、17歳でワールドカップ58年大会に出場、ブラジルを初優勝に導いた。しかしその後62年と66年の大会では一次予選で相手チームの乱暴なタックルで怪我して出場できず、「こんな荒っぽいワールドカップにはもう二度と出ない」と宣言した。

しかしファンの声に押されて70年大会に再度出場、再びブラジルを優勝に導いた。生涯1238得点。この記録は当面破られることはないであろう。

●「皇帝」ベッケンバウアー

1945年9月11日バイエルン生まれ。フランツ・ベッケンバウアーは現代的「リベロ」の創始者である。リベロはディフェンダーのひとつのポジョンであるが、ただのディフェンダーではない。一般には他のディフェンダーの後ろあるいは前で、特定のマーク相手を持たずに守備の補充をし、守備陣全体に指示を出す。そして相手からボールを奪い取ったら即攻撃の起点となって相手陣地まで攻め上がる。豊富な運動量と卓越したゲーム感覚を持っていなければ務まらないポジションである。

この現代的なリベロはベッケンバウアーとともに生まれた。彼の活躍で西ドイツは1966年大会で準優勝、1970年大会で3位、そして1974年大会で「空飛ぶオランダ人」クライフのオランダに勝って優勝を果たした。その後1990年大会では監督として西ドイツを優勝に導いており、選手としても監督としても頂点を極めた類い希な人物である。

●「爆撃機」ミュラー

1945年11月3日生まれ。ゲルト・ミュラーはワールドカップ通算得点トップの14得点を記録しており、そのゴールゲット能力は「爆撃機」と呼ばれた。彼のゴールは概して芸術的なゴールではなくむしろ貪欲なゴールである。そのゴールへの執念が彼の持ち味であった。

1945年生まれ。ドイツ・ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘンで活躍し、1967年には28得点という凄い記録で得点王になる。74年大会の決勝ではセンタリングをいったんゴール前で受けそこない、後ろへそらしてしまった。しかし、そこから彼は体を半回転させてそのそらしたボールをそのままゴールへ蹴り込む。彼らしい執念のゴールであった。

●「空飛ぶオランダ人」クライフ

1947年4月25日アムステルダム生まれ。「空飛ぶオランダ人」という変わった異名は彼が率いたチームの画期的なシステムから来たものである。彼以前のサッカーではフォワードは攻撃だけ、ディフェンダーは守るだけ、という傾向が強かった。しかし彼は10人で攻めて10人で守るという「トータル・フットボール」を構築したのである。その背景にはヨハン・クライフという天才の卓越した運動能力と、それを生かすことのできた当時のリヌス・ミケルス監督の采配があった。

(日本の岡田監督はこのミケルスにタイプが似ているという評価もある。もっとも日本にはクライフがいないかも知れないのが辛い所。)

彼の力でオランダは1974年大会に36年ぶりの出場を果たし、甚だ前評判が低かった所を決勝戦まで導くのである。現役引退後、彼はFCバルセロナでカルロス・レシャック(1998年の横浜フリューゲルス監督)とともに、このシステムを安定的に定着させた美しい3−4−3システムを構築した。

●「将軍」プラティニ

1955年6月21日ナンシー生まれ。ドイツのベッケンバウアーが「皇帝」と呼ばれたのに対してフランスのミッシェル・プラティニは「将軍」と呼ばれた。フランスが生んだ最高の選手といわれる。ミッドフィルダーとして中盤を支配し、優れた戦術眼と統率力でチームをうまく動かし、ゴールをゲットする。芸術的なプレーヤーであった。

82年大会では順当に勝ち進み、準決勝でリトバルスキーらを擁する西ドイツと当たる。1対1から延長戦に入り2点取って3−1とした時、誰もがフランスの決勝進出を信じた。しかしここからフランスは守りに入ったのがあだとなり、西ドイツにボールの支配権を取られてあっという間に同点に追いつかれる。そしてPK戦で敗れてフランスの初優勝への道は閉ざされた。プラティニは優勝に手が届かなかった天才の一人である。

88年から92年までフランス代表監督を務め、1998年のワールドカップでは、大会の組織委員長として活躍した。

●「神様」ジーコ

ブラジルのサッカー界で通常「神様」といえばペレを指すが、ジーコもまた「神様」と呼ばれ、また「白いペレ」とも呼ばれた。プラティニと同じく優勝をゲットできなかった悲運の天才の一人である。

1953年3月3日生まれ。本名アルツール・アンツネス・コインブラ。78年,82年,86年と3回の大会に出場し、特に82年大会で活躍したが決勝に進出することはできなかった。その筋肉質の肉体は凄まじい鍛錬によって作り上げられたものであるが、彼も怪我に泣いた。

89年現役引退後いったんブラジルのスポーツ大臣を務めたが、後に来日し鹿島アントラーズで現役復帰。91年から94年まで選手として華麗な技を見せてくれた。そして1年おいて96年からはアントラーズの総監督としてチームの総体的な指導を行っている。1998年のフランス・ワールドカップではブラジル代表のテクニカル・コーディネーターとしてチームをバックアップした。

●「英雄」マラドーナ

アルゼンチンが生んだスーパースター、ディエゴ・マラドーナは1960年10月30日ブエノスアイレス生まれである。82年と86年のワールドカップで活躍したが、特に86年大会は「マラドーナのマラドーナによるマラドーナの為の大会」とまで言われた。もちろんこの年アルゼンチンは優勝している。

この86年大会のイングランド戦における「五人抜きゴール」は今でも語りぐさである。ハーフライン付近でボールを持ってから巧みなドリブルで相手のディフェンス陣を4人抜き、最後はゴールキーパーも抜いて倒れながらゴール。60mの独走の間、相手ディフェンスはファウルで止めることさえできなかった。160cm前後というサッカー選手としては非常に小さい体に秘められたパワーは計り知れない。

しかし91年彼はコカイン不法所持で逮捕され、更に94年大会では会期中に薬物の使用が発覚し追放される。 ↑


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