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ニクソン訪中(1972.2)

1972年2月21日、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問し、両者の間には急速に雪解けのムードが漂い始めました。

第二次世界大戦を契機に諸外国に支配される状態から脱出した中国は戦後、国民党勢力と共産党勢力の闘争が表面化。結局毛沢東らに率いられた共産党が事実上勝って国民党は台湾に逃れ「中華民国」を存続させる一方、共産党は中華人民共和国を設立して、大陸部を支配しました。

しかしアメリカや西洋諸国は共産主義の拡散を恐れ、この中華人民共和国を公認せず、国連の議席も中華民国(台湾)にのみ与えられていました。

これに対して1960年代の文化大革命が一段落した中華人民共和国は各方面から国連への加入を画策、やがて1971年10月国連総会で「アルバニア型決議案」が承認されて、中華人民共和国が国連に「復帰」すると共に安全保障理事会の常任理事国の地位も、中華民国から中華人民共和国に移動させられました。これに対して中華民国は国連を脱退、完全に入れ替わった形になりました。

ニクソン訪中はこの流れの中にあるものですが、それまで反共思想から中華民国一辺倒だったアメリカの軟化を促したのが有名な「ピンポン外交」です。

1971年4月、日本で行われた世界卓球選手権大会に、アジア卓球連盟会長であった後藤コウニ氏の努力で、潜在的には世界一の実力を持つと言われていた中華人民共和国の選手団を招待することが実現します(後藤氏は中華民国の反撃により、決定直後辞任)。その大会の期間中に一人のアメリカ人選手が寝坊して、会場に行く自分の国の選手団用のバスに乗り遅れてしまいました。

焦って、宿舎前で立ちつくして困っていた彼の前に偶然止まったのが中華人民共和国の選手団を乗せたバスでした。会場へ行くなら乗せてってくれ、という彼に中国選手団は快諾。そして彼は会場に着くまでの間に中国選手たちと、同じ卓球選手同士ということで、すっかり打ち解けてしまいました。

そしてこのことがきっかけになり、両国選手団の間に交流が発生。この大会の最終日の4月7日、中国選手団はアメリカ選手団をぜひ中国に招待したいという声明を発表して、世界中を驚かせました。

この中国選手団の積極的な動きを影で支えていたのが当時事実上中国を切り盛りしていた周恩来首相であるといいます。彼は対アメリカの動きに消極的な毛沢東主席を説得し、選手団を後押ししてこの招待を実現させました。

アメリカ選手団は日本での大会が終わると、そのまま4月10日、中国に渡り、北京で親善試合を行いました。「ピンポンの玉は軽いが、友情の重みは図り知れない」という両国のコメント。そしてその秋の中国国連復帰を経て1972年2月、ニクソン訪中となるわけです。ニクソンは周恩来・毛沢東の両首脳と会談、米中平和五原則を27日発表しました。

これに対して「頭越し外交」をされて焦った日本は9月に田中角栄首相が訪中し、日中共同声明を発表して国交回復を実現しました。しかし中国にとってはこの日本の「焦りからの暴走」は非常に力になりました。なにしろ肝心のアメリカとの国交回復が実現したのはこのニクソン訪中から6年もたった1978年でしたので。結果的に日本は中国の隣人としての役割をきちんと果たしたことになります。


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