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伊達騒動(1671)

寛文11年(1671)、3月27日仙台の伊達藩の重臣達の間に刃傷事件があり、関係者のほとんどが死亡して問題の追求が不可能になり、何やら訳の分からないまま「伊達騒動」が決着してしまいました。

当時伊達藩は幼い藩主伊達綱村を擁し、伊達一門筆頭の伊達兵部宗勝が藩主後見役として家老原田甲斐宗輔とともに実際の藩政を動かしていました。

しかしこれに保守派の伊達安芸宗重らが反発し、藩主毒殺未遂事件なども起こしながら両派の対立が深まります。そしてやがて寛文10年、伊達安芸は兵部一派が悪政を行っていると幕府に訴え、幕府から老中板倉重矩が派遣されて、取り調べが始まりました。

当時は徳川初期の激しい大名改易の嵐は一段落した所でしたが幕府としてはこのような巨大大名の勢力を削ぐにはいいチャンスです。この取り調べでは伊達兵部も原田甲斐もうまい返答ができず、保守派有利のうちに吟味は進みます。

そして最後の吟味が大老酒井雅楽頭忠清の屋敷で行われることになり、一同がそこに呼び集められるのですが、この時先に取り調べを終えて控え室に戻った原田甲斐は突然伊達安芸に斬りかかります。

安芸やその部下たちは即死、原田も騒ぎに気づいて駆けつけた酒井家の家臣に斬られ、居合わせた関係者がみな命を落としてしまったため、結局兵部一派が悪事をしていたのかどうかは追求不能になってしまいました。

この結果、原田甲斐の家は断絶とされその息子達も死罪、生き残った伊達兵部は土佐に流されますが、仙台藩62万石にはおとがめなしとなります。

この事件では古来原田甲斐はとんでもない極悪人のように言われていたのですが、仙台藩が結果的には安泰となったという結論と、甲斐の墓の微妙な位置に注目した山本周五郎は「樅の木は残った」を書き、原田甲斐は仙台藩分割を狙う酒井らから藩を守ったという忠臣説を提示して大きな反響を呼びました。


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