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一里塚の設置令(1604)

慶長9年2月4日(Greg.1604.03.04)幕府は江戸日本橋を基点にして全国に一里塚を設置するよう指令を出しました。これは家康が「これからは江戸が日本の中心」ということを庶民に印象付けるために行ったものとされます。この設置の指揮をしたのは、元猿楽師という異色の官僚、大久保長安(1545-1613)です。

長安は元々甲斐の国で武田家お出入りの猿楽師でしたがそのころに甲斐で発達していた治水や鉱山関係の技術に触れたとされます。武田が滅んだ後、やはり猿楽師として家康に仕えるのですが、彼の豊富な金治技術に関する知識に目が留められ伊豆金山の開発に従事して徳川家の懐を豊かにしました。

一里塚というのは中国起源のもので、大きな道の一里ごとに土盛りをして槐の木を植えたり、標識を立てたりしたものです。日本では平安末期の平泉の藤原家で、白河の関から陸奥湾に面した外ヶ浜まで里程標を立てたのが最初ともいわれます。室町時代初期の一休禅師が『正月は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし』

という歌を詠んでいますので概念自体はその頃から知られていたのでしょう。しかし一里塚が全国的に組織的にきちんと設置されたのは、やはり江戸初期のこの時のことのようです。工事は約10年ほどかかっています。

一里塚には一般に榎の木が植えられており、その木の陰で旅人が休息を取れるように配慮されていました。なぜ榎になったかについては伝説では家康が長安に「ええ木を植えるべし」と言ったのを「えのき」と聞き間違ったことから榎を植えたという話があります。

なお一里の長さなのですが、日本では約4kmですが、中国では約500mであったようです。中国の一里で一里塚を作れば、現代の遊歩道の道しるべくらいの頻度で塚が出現することになり、これもありがたい気がします。(設置するのはたいへんですが)

なお場所によっては一里塚の中点に半里塚があった場所もあるようです。またどこかの基点から1里、2里、3里、4里の距離の一里塚をそれぞれ一里塚、二里塚、三里塚、四里塚と呼んだ例もあるようです。


(2004-02-03)

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