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公武合体(1862)

1862年(文久2年)2月11日、孝明天皇の妹和宮親子内親王が徳川14代将軍家茂に嫁ぎました。いわゆる「公武合体」で、天皇家と幕府が一緒に外国の圧力に対抗していこう、という意志の象徴でした。

和宮17歳、家茂もやはり17歳。和宮は当時有栖川熾仁親王と既に婚約していました。しかし国家存亡の危機の中、他に適当な皇女もおらず、公武合体は絶対に必要との声に押され、無理矢理東国へと嫁がされました。

  今更に人をも身をも恨ままし かずならぬ身をひとりかこたん

彼女のお嫁入りの行列が通過したとき、有栖川家の門は硬く閉ざされたままだったそうです。しかしその夫の家茂はわずか4年後1866年の7月20日病死、彼女は21歳の若さで出家、静寛院と称します。

歴史はもう歯車を止めようとはしませんでした。

家茂の後は孝明天皇の強い意思で水戸家より慶喜が将軍に立ちますが、当の孝明天皇本人は慶喜が将軍に就任した直後の12月25日、急死。毒殺との噂も多かったようです。

開けて慶応3年1月9日、孝明天皇の皇子の睦仁親王が践祚、混乱につぐ混乱を経て同年10月14日に慶喜はとうとう大政奉還、それを受けて新天皇は慶応1月15日に王政復古を宣言、和宮の愛しい人であった有栖川親王が初代の総裁(総理大臣相当)に任命されました。さらに天皇は有栖川親王を東征大総督にも任命し、親王は官軍を率いてまずは駿府まで進軍しました。

ここで官軍側の西郷隆盛と幕府側の勝海舟との交渉がもたれ、江戸無血開城が決まるのですが、この時、陰で尽力したのが和宮であったとされます。

親王は交渉成立とともに江戸に入り、いったん芝の増上寺に着いて、ここで陣営を整えてから慶応4年4月21日、江戸城に入城しました。


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