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島原の乱(1637)

1637年(寛永14年)10月25日、島原の乱が勃発しました。

この未曾有の乱について時間を追って見ていきましょう。

■1600年関ヶ原の合戦

天草を領有していたキリシタン大名小西行長が関ヶ原の合戦で西軍に参加。捕らえられて斬首。所領は唐津の寺沢広高に渡されます。

■1612年岡本大八事件

キリシタン大名であった島原藩主・有馬晴信は本多正純の家臣・岡本大八にだまされてポルトガル船を撃沈、また長崎奉行長谷川藤広を暗殺しようとしました(暗殺は未遂)。

有馬はポルトガル船撃沈で恩賞がもらえると岡本に言われていたのですが、事が露見すると、幕府はそんな約束などしていない、ということが分かり、しかも長崎奉行を暗殺しようとするとは不届至極ということで切腹を命じられます。

そして晴信の息子直純は家督相続は許されたものの、藩内でキリスト教を取り締まるよう厳命されました。

その直純も2年後には宮崎に転封になり、その後島原には松倉重治が入り、更に過酷なキリスト教追放政策を実施しました。

■1614年ママコスの予言

島原藩主が有馬家から松倉家に変わった年、天草を追放になった一人の神父がいました。名をママコスといいますが、彼はその地を去る時に不思議な予言の書を残していきました。

当年より五々の数をもって天下に若人一人出生すべし。その稚子習わずし て諸学を極め、天の印顕わるべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクル スを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし。

■1634〜1637年続く凶作

江戸時代初期は幕府は諸大名の力を抑えるために、諸藩に本来より多い石高を設定していました。島原藩は元々は4.3万石であったのが6万石になっていますし、天草も当時4.2万石でしたが島原の乱以降は2.1万石になっていますから当時は本来の倍の石高が認定されていたことになります。

このような実力より高い石高認定は、結果的にはそれだけの年貢を納める必要が出てくるため、最終的には農民にずっしりと重い負担が掛かってきます。

島原・天草の農民たちはこの重い年貢にたえかねていました。そして年貢を完納できない農民に対してしばしば見せしめにひどい刑罰が加えられました。有名な「蓑踊り」とは、年貢を納められなかった百姓を蓑(みの)でしばりあげ、生きたまま火を付けるというものです。熱さのあまりもだえる様が踊っているように見えるということでこの名前が付きました。

加えてこの2地方は元々キリスト教信者が多かったところで、この追求も厳しいものでした。島原では改宗を拒否した信者を雲仙の火口に放り込むなどの虐殺がおこなわれています。

このようにして農民の不満が爆発寸前になっていた折りもおり、1634年から1637年までひどい凶作が続きました。しかし凶作でも年貢の量は変わりません。餓死者が相次ぎます。農民たちはもう進退窮まる状態に置かれました。

■神童現る

1637年の秋頃、天草の民衆の間に突然ひとつの噂が流れ始めます。それはママコスの予言に関するものでした。

ママコスは1614年に「五々の数」と言っていますが「五々」とは5×5=25ではないか、ということであの年から25年目であれば1639年。予言が成就する年が近づいているというものです。そしてそのママコスの予言に言われていた印を持つ若人というのは、天草の大矢野島に住む小西浪人の息子・益田四郎という当年16歳の少年のことではないか、というのです。この少年は5歳にして字を書き、習わずして書を読んだといわれました。

(一般にはたいへんな美少年であったと伝えられていますが、残念ながら当時の文献に天草四郎の容貌に関する記録はなかったようです。後世の付会かも知れません。悲劇に美少年は似合います。)

おりしもその年の秋天草では毎日のように夕方西の空に不思議な雲が観測されました。細く長い雲で旗雲と呼ばれましたが、7筋ほど見られ、その内の4筋が赤、3筋が白で赤い雲が先に消え、あとから白い雲が消えます。そして秋なのに桜が咲き、将軍家光が病気で余命いくばくもない、という噂まで流れてきました。

天草のキリスト教信者の一部はこの噂を積極的に利用し、キリスト教をやめて仏教に転向した人たちに「いよいよママコス様の予言が実現し最後の審判が行われてキリスト教の時代が来る」と言って、キリスト教に再改宗するよう勧めて回りました。

■勃発

1637年10月23日。島原の有馬村で宣教活動をしていた三吉と角内という2人のキリスト教徒が家族ともども検挙されました。二人は「デウスの絵」を掲げ、キリスト教徒に改宗しない者はこれから起きる最後の審判で火の地獄の中に沈むことになる、といって強引な勧誘をおこなっていたのです。二人の回りに多くの信者が集まっていました。

農民達は二人が検挙されるといったんは解散しましたが、翌24日の昼頃になるとまた三吉と角内の家に集結をはじめ、儀式を始めました。一説によると検挙された二家族はみな即処刑されたのではないかと信者たちが考え、追悼の儀式をしようとしていたのだともいいます。

ここに農民達を解散させようと、九郎左衛門・兵左衛門という二人の代官が赴きますが、農民たちとの話し合いがなかなか付きません。そして短気を起こした兵左衛門が「デウスの絵」を破って、農民たちを打ち叩きました。

ところがこれに怒った農民達は兵左衛門を取り囲み、逆に叩き殺してしまいます。九郎左衛門は危うく難を逃れましたがその辺にいたら自分も殺されそうなので知合いの家にかくまってもらい、その家の者を島原城まで走らせて急を告げました。

農民側としては代官を殺してしまったとあらば、もうただで済む訳がありません。積年の重い年貢に対する反発とキリスト教弾圧への不満がここで爆発し、有馬村の農民達はとうとう一揆を起こしました。

するとこの噂はあっという間に島原藩南部の諸村に飛び火、24日夜から26日にかけて各地で呼応した蜂起が起きます。これに対して島原藩北部の諸村はこのような形の蜂起に反対。一部の過激派が扇動しているにすぎないとして、鎮圧に協力、いくつかの村で一揆のリーダーを討ち取ることに成功します。

一方知らせを受けた島原城では急遽鎮圧の兵を100名ほど差し向けますが、続報を受けて、それではとても足りないと判断。結局25日、城内の兵を総動員して、有馬村方面に向かいました。

しかし行ってみるともう一揆はとても手が付けられない状態でした。やむを得ず鎮圧軍はいったん島原城に戻ります。逆に一揆側はどんどん各村のリーダーが連合、26〜27日には逆に島原城に迫り、藩軍側が籠城して堪え忍ぶ羽目になりました。この時、島原城には急なことで通常の食糧の備蓄はありませんでしたが、何かの時のために1頭丸ごと地中に埋めていた鯨を掘り出して食べていたそうです。

■天草でも呼応

島原での一揆の勃発はただちに天草にも知らされました。ここでまずは大矢野島の益田四郎をいただく人々が動き始めます。彼らもいよいよ最後の審判が来るのだと確信、集団で大矢野の奉行を訪問し、「これからはキリスト教の時代になりますので、我々はみなキリスト教に戻ります。奉行様も改宗なさった方がいいですよ」と勧めました。

奉行の石原太郎左衛門は大勢で来られたことで対処に困りますが、その場は穏便に「日本中がキリスト教の世界になったら、殿様からその旨お達しがあると思うので、そのお達しを待って対処しましょう」と言い、農民達をおとなしく帰します。

(とても素晴らしい対処ですね。役人がみんなこうだったら乱も起きなかったと思うのですが)

奉行としてはそのまま沈静化することを最初は祈っていたのですが、信者たちが武力制圧を狙っているとの風聞が流れてくるとやむを得ずこのことを唐津城に報告。すると唐津城ではそれに対しては武力鎮圧すべしとの決定が下り、1500人ほどの兵力を差し向けます。

この鎮圧軍は大矢野島を急襲して益田四郎の母などを捕らえたりしますが、結局信者の数に対して差し向けた兵力が小さすぎました。結果的にはこの力の弾圧が逆に信者たちの怒りを買い、信者たちの一部がほんとうに暴徒化、わざわざ一揆を誘発する形になってしまいました。

一揆軍はあッという間に鎮圧軍を打破、逆に富岡城に迫ってこれを包囲。こちらも藩側が籠城する羽目になってしまいました。

■板倉重昌、派遣さる

島原と天草で相次いで大規模な一揆が起きたとの知らせは11月8日幕府に届きました。この時幕府もこの一揆を甘く見過ぎていました。幕府の使者を出して九州の近隣雄藩である細川・鍋島両藩にも軍を出してもらい、協力して鎮圧しようとしました。この使者には家康公以来の忠臣で幕府の信任の篤い板倉重昌が指名されました。

幕府から大軍が派遣される!!

その知らせを受けた島原と天草の一揆軍は、なかなか落ちない島原城・富岡城の攻略を諦め、11月下旬、合流して島原の廃城・原城跡にたてこもりました。廃城とはいえ、堀と石垣は充分に防御に役立つものでした。その勢力は3.7万人。一揆に参加した農民がみな原城に入ったため、島原南部と天草は人っ子一人いない廃村のようになりました。

島原・天草の合同一揆民は益田四郎(天草四郎)を総大将とし、その下に鉄砲大将・侍大将・普請奉行・などといった幹部を置いて組織をしっかりと固めました。

そして板倉が率いる軍は12月上旬に島原に到着し、松倉・寺沢両藩の軍、鍋島・細川からの協力軍とともに、原城の攻略にとりかかることになりました。

ところが板倉は能吏ではあってもわずか1.5万石の小大名。細川の軍も鍋島の軍もこのような小大名の言うことなど全く聞いてくれません。幕府軍は全く統制を欠きそれぞれが勝手な動きばかりします。そこを付け入られて一揆軍に手痛い目にばかり合わされました。結局攻略は全く進みませんでした。

■老中・松平伊豆守、派遣さる

ここに来て幕府もこれはただごとではないということにようやく気付きました。将軍家光は自ら決断を下し、腹心中の腹心である、老中・松平伊豆守信綱(通称「知恵伊豆」)を援軍として派遣します。動員する兵力は一揆軍の3倍以上の12万人の大軍になりました。

ところがこの知らせを聞いた板倉重昌は苦しい立場に追い込まれてしまいました。自分が最初に派遣されてきたのにどうしても一揆側を鎮圧することができないでいるところに、超大物の「援軍」がやってくる。これでは武士としての面目が立ちません。板倉は討ち死にするしかないと心に決めました。

そして松平信綱が到着する直前の1638年1月1日。板倉は手勢の兵を率いて無謀な城突入作戦を敢行。望み通り討ち死にしてしまいました。この戦闘における幕府軍の死者は4000人、対する一揆側の死者はわずか100人でした。

■松平伊豆守、城を攻略する

老中・松平信綱が率いる軍勢は1月4日島原に到着しました。

信綱はこの城は強引に攻めてもそう簡単に落ちるものではないと判断。長期戦に転じます。

城をしっかりと包囲して兵糧責めにする一方、トンネルを掘って城内に侵入しようとしたり、オランダに協力を求めて船から艦砲射撃を加えてもらったりしましたが、これはいづれもあまり効果は得られませんでした。

しかし、鯨を埋めていた島原城とは違って原城には多くの食糧備蓄はありませんでした。長期化してくると城内の食糧も弾薬も不足してきます。何度か起きた小戦闘で倒した一揆軍の農民の腹を割くと、中には芝や海草のようなものしか入っていませんでした。

そんな中、信綱は甲賀者を城内に潜入させて、中の状況をできるだけ正確に把握させます。また城内にわずかに残る食糧を盗み出せるだけ盗み出させました。そして城の回りに土俵を積み上げ、侵入しやすいようにしていきます。

2月27日、幕府軍は満を持して城に総攻撃をかけます。

一斉射撃をかけて城方の防御兵がひるんだ隙に、突撃隊が塀を乗り越えて中に侵入します。そして出丸に火をつけ、一揆軍が後退するのに合わせて、幕府軍はどんどん中に流入。一揆軍は最初は三の丸で、最後は二の丸で抵抗しますが、翌28日完全に壊滅します。

幕府軍にはたとえ女子供でも全員殺害せよ、との厳命が下っていました。わずかに事情聴取のために生かされた一名(山田右衛門)だけを残して一揆軍は全滅しました。益田四郎の首は細川家の家臣・陣佐(じんの)左衛門が取りました。

この戦闘で幕府側も1000人以上の死者を出しました。

おびただしい死体の群を前にして、41歳の若き老中は厳しい表情で立ち続けていました。

世は鎖国へと進んでいきます。

■乱後処理

幕府の乱後の処分も厳しいものでした。

乱の原因を作った島原藩主・松倉重治は美作国に配流された上、大名としては異例中の異例の斬罪に処されました。天草藩主(唐津藩主)の寺沢堅高も天草領は没収されました。堅高は責任を取って切腹しました。

また攻防戦の時に軍紀に従わなかった佐賀藩主・鍋島勝茂(本来は総攻撃は28日の予定であったのが佐賀藩が抜け駆けした為、やむを得ず27日に全軍が動くことになった)も処分を受けました。

乱後、島原南部と天草にはほとんど農民がいなくなってしまったため、各藩に強制的に人数割をして農民を移住させました。藩によってはくじ引きで移住者を決めたところもあったようです。

その後この土地の農民は非常に優遇されたため、その後近隣の諸藩から非合法に流入してくる者も多く、それをまた黙認したため、50年後には再び豊かな農村が復興しました。しかもこの土地の年貢は軽減されていた上に古いしがらみのない新しい村が構築されることになったため、日本国内で最も近代的な村が生まれたのです。


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