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新撰組結成(1863)

2月27日は幕末の京都にその威名を轟かせた新撰組誕生の日です。

この新撰組は元々は壬生浪士隊といい、幕府が何かとぶっそうな京都の警護のため、清川八郎の提案で、支度金50両(500万円くらい)という大きな特典を付けて江戸で募集したものです。

ところがこの巨額な支度金に釣られて応募者が殺到。幕府は予算が足りないので結局全員10両で我慢させました。

一行は意気揚々と、文久3年(1863)2月に江戸を出発しますが、京都についた途端、清川はこの浪士組の目的は尊皇攘夷だ、と言い始め浪士組は空中分解してしまいます。

近藤勇らは清川と山岡鉄太郎の暗殺を図りますが未遂に終わり、幕府が浪士組帰還命令を出した為、清川ら209名は3月末に江戸に戻りました。清川は江戸麻布で結局幕府の刺客に殺されてしまいます。

一方近藤勇・芹沢鴨・土方歳三ら24名はそのまま京都に残留、若き京都守護職・会津藩主の松平肥後守容保の配下に入って8月には新撰組を称しました。

新撰組は当初から内部の粛正を繰り返します。

  3月26日 山南敬助・近藤勇・芹沢鴨らが殿内義雄を殺害 9月18日 近藤勇らが芹沢鴨・新見錦・平山五郎・平間重助を殺害12月28日 野口健司を殺害

新撰組の京都での活動は文久3年の夏から慶応3年(1867)の暮まで約4年間続きました。その間、彼らは鉄の団結力で尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行っていきます。主なものだけでも次のようなものがあります。

 文久 3年 8月13日 大和屋焼き討ち元治元年 5月20日 大坂町奉行与力の内山彦次郎を殺害 6月 5日 池田屋で長州藩士ら16名を殺害(池田屋騒動)慶応 2年 9月12日 三条大橋で土佐藩士を襲撃し2名を殺害慶応 3年12月 7日 天満屋で海援隊と乱闘

しかし時代は新撰組の思惑とは無関係に明治維新へと流れて行きます。彼らは慶応4年1月12日軍艦冨士山丸に乗って江戸へ向かい、官軍に対抗しようとしますが、近藤勇は捕らえられて江戸板橋で処刑、沖田総司は結核のため死亡してメンバーも寂しくなってしまいました。

しかしそれでも近藤から組を引き継いだ土方歳三は五稜郭で最後の抵抗を試みる幕府軍に参加します。そして土方はこの戦闘で腹部貫通銃創を受けて死亡。新撰組の歴史は閉じられました。


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