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八百屋お七(1668-1683)

天和3年(1683)3月29日、鈴ヶ森刑場にて八百屋お七が火あぶりの刑に処せられました。

お七は以前火事にあって一家がお寺に避難した折り、一人の男と出会い恋をします。やがて一家は再建された家に戻りますが、男のことが忘れられません。その思いがつのって、もう一度火事が起きたら会えるかも知れないと思い、放火をしたと伝えられています。

さてこの伝承ですが、どうもよく分からない部分があります。少し検討してみましょう。

【お七の相手の名前は?】

お七の恋しい相手の名前としては吉三郎という説、生田庄之助という説、僧ではなく侍で佐兵衛といったなどといった説があるようです。庄之助説ではお七をそそのかして火をつけさせたのが吉三郎という者であるとなっています。

火事で避難することによって必然的に会えると思った、ということより、相手の男は寺の若い僧であったという説が信用できるように思いますが、この僧は後に西運という偉い坊さんになったともいう話も聞いたことがあります。

落語ですとお七が火あぶりになったのを悲観して恋の相手の吉三郎は川に身を投げて死に、二人が地獄で出会って手を取り合うとジューっという音がしたといいます。それはお七は火で死に吉三郎は水で死んだので水と火が触れてジューっという音がしたということと、お七の七と吉三郎の三とで十になるからだともいいます。言霊ですね(^^;

【どの火事?】

お七が相手の男と出会った火事というのは一体どれでしょうか? 当時は大きな火事の非常に多い時代です。お七が生れる10年ほど前には不気味な振袖火事が起きています。

お七は放火した時16歳になったばかりであったとされます。奉行が哀れんで15歳以下のものは罪一等を減じるという規定を利用しようと思い「お前はまだ15であろう?」と言い含めるように言ったのに対し、お七は自分の生まれた時の宮参りの記録などまで持ち出して自分は16であると主張したというエピソードが伝わっています。

その年齢を考慮して処刑される少し前の大火の記録を調べてみますと、怪しいのは延宝7年(1679)5月29日の火事と処刑前年になる天和2年12月28日の火事です。

ここで延宝7年説を取りますと、お七の放火により天和2年の火事が起きたという解釈もなりたちます。しかしこの天和2年の火事は振袖火事ほどではないにしても非常に大きな被害を出しており、その放火犯人であればたとえ子供であっても奉行が情けをかける筈がありません。

また1682年に16歳だったとすると1679年は13歳ということになり、3年間も忍んだ恋が突然このような形で過激な行動を生み出すというのは少し納得しかねるように思います。

結論としてはお七が被災し寺に避難したのが天和2年の火事で、相手の男とはほんとに何日間かの交際、そしてすぐ家に戻るも忘れられず発作的な行動に出たというのが自然でしょう。

するとお七が火をつけたものの怖くなり自ら火の見櫓に登って半鐘を叩いたという伝承とも一致します。つまりお七が付けた火はボヤ程度で済んだので奉行も情けをかけようとしたということで辻褄があいます。

【お七丙午説】

丙午の女は不吉という風説がありました。この為昭和41年の丙午の時には大幅に出生率が下がっています。

東洋占の立場からは丙午を忌み嫌ったのは丙も午も火の要素なので、それが重なって丙午は強い火となり、女性にしては勢いが強すぎるとして嫌ったのではないか、と推察されています。が俗説でこのお七が丙午の生まれであったため、というものがあります。

しかしこれは当たっていないように思います。お七は放火をした時16であったとされますので、それは1682年か1683年ということになります。

しかし最初火事にあったのが12月28日でこの年の12月は30日までありますが、避難して寺で数日過ごして家に戻って恋心がつのって放火というのが年内のわずか2日間に起きたとは考えにくいのでやはり放火は明けて1683年でしょう。その時16だったとすれば生まれたのは1668年になります。この年は戊申であり、丙午はその2年前の1666年です。


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