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延喜式の配布(967)

康保4年(967)7月9日、大納言藤原在衡が勅命により延喜式五十巻を畿内諸国司に頒布することを命じました。

延喜式というのは平安時代の律令の施行規則で、延喜5年(905)に編纂が始まったのでこう呼ばれます。元々は醍醐天皇の命で藤原時平が編纂しはじめたものですが完成させたのは弟の忠平(諸輔の父)です。ここにいたって白鳳時代から少しずつ作られて行っていた日本の法治制度が完成したということも可能でしょう。

延喜式の中で現代でもひじょうに重視されているのがこの中に含まれる「神名帳」です。政府から各地の神社への使者の派遣などに関する要項が記されているのですが、ここに記されている神社というのは要するに(1)当時存在していた神社である(2)しかも中央政府にきちんと認識されていた重要な神社であるということになり、たいへんな格式のある神社であるとみなされ「式内社」と称されます。(古い神社でも特殊な事情により、この神名帳に記されていない神社も存在します)

古い時代から信仰の途絶えていない神社に関してはこの神名帳の記載と現在の神社とがきれいに結びつくのですが、戦国時代の戦乱などにより移転を重ねたり兵火に遭ったりして、当時との結びつきが曖昧になっている神社も多数あります。そういう場合、神名帳に載っている神社が現在のどの神社かというのに複数の説があるものも多くあります。

こういう場合、おそらくは有力な神社であるゆえに分社を重ねたものであったりまた昔は敷地が広かったのが、その後の周辺の事情の変化で神社の土地の中に他の建物が多数たってしまい、結果的に元々ひとつのまとまった土地であったのが分断されて、その分断された中にいくつかお社がのこっている場合などが多いものと思われます。100mか200m離れた程度の距離で2つの神社が本家争いしている場合はたぶんこの後者のケースです。

また式内社がひじょうに多い地帯というのがあって、たとえば北部九州沿岸から壱岐対馬にかけての地域はかなりの集中地帯になっています。これは昔の大陸との交易路にそって、朝廷を支える有力海洋氏族(水軍)が分布していたのと、やはり交易経路の無事を祈って頻繁に公式な祈願がおこなわれていたことと密接に絡んでいるのでしょう。


(2004-07-09)

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