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応天門の変(866)

これは非常に不透明な事件です。結局誰が悪かったのかさっぱり分かりませんが、ともかく藤原一族にとってのライバルがひとつ消えたことは確かです。

宇治拾遺物語巻十には次のように書いてあります。

 水尾帝(清和天皇)の御時、応天門が焼けた。その時、大納言・伴善男が「これは左大臣・源信の仕業です」と申し出た。すると右大臣藤原良相の兄の忠仁公(太政大臣・藤原良房が白川から駆けつけて、そのようなことはよくよく調べてから対処なさいますようにと天皇に奏上。頭中将(藤原基経)の働きもあって、源信に関しての取り調べは保留になる。

 そして秋頃、右兵衛の舎人が、応天門が焼けた直前、門の前から伴善男とその息子(伴中庸)、それに雑色のとよ清の3人が駆け出して来たのを見たと申し出た。この舎人は大変なことだからと思い黙っていた。しかしある時、大納言の出納の家の子供と自分の子供がケンカをして、自分の子供が死にそうなほど痛めつけられる事件があった。抗議をしに行くと、出納は自分の主人は大納言だぞと威張って、謝ろうともしない。そこで腹を立て自分は応天門のことを知ってるんだぞと言う。すると、そのやりとりを聞いていた近所の人々が噂に噂を重ね、やがてお上の耳に届いた。そこで、役人がその舎人を呼びだして、応天門の事件について何を知っているのか問いただした所、その日火事の起きる直前に伴善男らを見たことを語る。

 かくして、伴善男らは処分を受けて流刑にされたのである。

伴善男は古代の名氏族・大伴家の末裔で、大伴一族において最後に中央政治に関わった人です。彼がこの事件で失脚した後、大伴家の名前は歴史の表舞台には出てきません。

この時期の勢力図としては、藤原家は、良房が太政大臣、弟の良相が右大臣の地位にあり、良房の養子で次世代のホープ藤原基経はまだ近衛中将です。

この基経の妹が、伊勢物語のヒロインで在原業平の恋人・藤原高子。清和天皇の女御で陽成天皇の母となります。一方の良相の娘が藤原多美子。同じく清和天皇の女御ですが、清和天皇の愛を一身に受けていました。

藤原良相という人はたいへん人望のあった人のようで、小野篁が地獄の裁判官をしていたという伝説がありますが、その伝説で良相は一度死んだものの篁が「この人は立派な人物なので、もう少し生きさせて下さい」と閻魔大王に取りなしたため、生き返ることができたということになっています。

さて、一方で政治勢力の中で無視できない存在であったのは臣籍に降下した嵯峨天皇の皇子たち、とりわけ源信・源常・源融の3兄弟でした。ここで、よく言われる話は、この事件は良房・基経親子が、一気に良相・大伴・源3兄弟を政治中枢から駆逐しようとしたのではないか、という話です。

結局まず大伴が源信を告発することで、あわよくば自分の手は一切汚さずに源信らを外すことができる可能性がありました。しかしこの段階では源信が良房を頼って来たため、ここは逆に彼をかばって点数稼ぎをしておきます。

そして今度はいかにも怪しげな目撃者を仕立てて、まんまと大伴に放火の罪を着せることに成功したという訳です。良房は大伴と一緒に良相も連座させようとしたが、そこまではできなかったという話もあるようです。しかし、結果的には翌年10月良相は亡くなってしまい、多美子も子供に恵まれず皇統は高子の生んだ陽成天皇に引き継がれて、良房・基経による「摂関政治」の体制が始まります。この体制がこのあと平安時代末期の保元の乱の時まで続くわけです。

しかし、この良房・基経陰謀説もどこまで根拠があるのかよく分かりません。なお、源3兄弟はしぶとく、後に陽成天皇が退位した時に、源融が次の天皇候補者に名乗りをあげる程でした。

で、そもそもこの応天門がなぜ焼けたかですが......きっと浮浪者か何かによる失火なのではないでしょうかねぇ。。。。不確かですが。焼けたのは貞観8年閏3月10日。太陽暦に直すと866年の5月3日になります。年間で最も乾燥する時期ですから。。。

※この項、数ヶ月前に図書館に籠もってかなり調べたのですが、その時のノートが家の中に埋没していて出てきません(;_;)出てきたら少し補追させていただくかも知れません。


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