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鎌倉幕府滅亡(1333)

時は元弘3年(正慶2年,1333)5月22日。鎌倉幕府最後の執権・北条高時は鎌倉東勝寺にて一族ともども自刃、「いい国作ろう」1192年に出来た鎌倉幕府が滅亡しました。

鎌倉幕府は源頼朝が創設したあと、頼朝直系の血は早々に途絶えてしまい、4代将軍以降は藤原家や宮家から名目上の将軍を立て、実際の権限は執権の北条家が行使するという二重体制のもとで続いて来ました。

文永11年(1274)と弘安4年(1281)の元寇は若き執権北条時宗(1251-1284)の力で乗り切りますが、その時宗が34歳の若さでこの世を去ると元寇のため幕府の財政が極端に悪化したこともあり、幕府の支配体制にゆるみが出てきます。

そんな中、天皇家にも少し問題が起きていました。後嵯峨天皇のあとの天皇家の血筋が持明院統と大覚寺統とに分裂し、両派対立する中、双方から一代おきに天皇を出しましょうなどという変則的な体制が成立します。

                    93              10089    92    +−後伏見−光厳−後光厳−後円融−後小松+−−後深草−−伏見−−−+ 9588   |     【持明院統】 +−花園後嵯峨−+              94         98|  90    91    +−後二条     +−長慶+−−亀山−−−後宇多−−+ 96   97   | 99【大覚寺統】      +−後醍醐−後村上−+−後亀山

そんな中、文保2年(1318)後醍醐天皇が即位しました。

天皇は天皇家も変則的、幕府も二重構造といった体制を変革し、天皇親政の世の中を実現しようと考え、クーデター計画を立てますが、これがあっけなく事前に露見します。元亨4年(1324)9月19日、天皇の下で計画を進めていた日野資朝・俊基が逮捕され、土岐頼兼らが討ち取られます。天皇は「自分は知らない」としらを切り通し責任追及を逃れました。(正中の変)

天皇はこれに懲りず、逮捕されたものの翌年赦免された日野俊基を中心に再度倒幕の計画を進めますが、元徳3年(1331)5月5日、天皇に謀反の計画ありという密告に対して幕府は速やかに兵を差し向け俊基らを逮捕します。(元弘の変)

ここで追求を逃れきることはできないと考えた天皇は8月24日突然三種の神器を携帯して奈良へ脱出、27日に笠置山に入ります。これに呼応して9月14日、楠木正成が天皇を支援する兵を起こしました。

これに対して持明院統の後伏見上皇は皇太子の量仁親王に皇位継承を指示、親王は9月20日践祚して光厳天皇となります。先行して8月9日改元も行われて元弘元年となっています。

後醍醐天皇の側はこの時は持ちこたえることができませんでした。笠置山はあっけなく陥落し、後醍醐天皇はやむなく三種の神器を光厳天皇に譲り、翌年3月後醍醐上皇は隠岐に流罪になりました。日野資朝・俊基も処刑されます。光厳天皇は3月正式に即位、4月にはまた改元が行われ正慶元年となります。

しかし上皇側はこれで引き下がりはしませんでした。その年の秋、楠木正成らが再度挙兵すると、翌正慶2年(1333)閏2月24日上皇は隠岐島を脱出します。これに対して幕府は足利尊氏らを鎌倉から討伐に向かわせます。このとき、幕府は尊氏が寝返るかも知れないという情報があったため、尊氏の子千寿丸を人質に取るのですが、尊氏は家族の命より時代の流れを優先しました。

もう鎌倉幕府の命数は尽きていると考えていた尊氏は後醍醐天皇側に寝返って、光厳天皇を京都から追い出してしまいます。

こういった動きに、新田義貞も呼応して関東で挙兵しました。義貞は自力で幕府の手から脱出した千寿丸(後の足利義詮)と共に幕府軍と交戦、5月21日稲村ヶ崎から上陸して鎌倉に攻め入り市内で激しい戦闘を繰り広げます。そして22日、もうかなわないと見た北条高時らは葛西ヶ谷まで逃れ、東勝寺で一族280名とともに自害して果てました。高時は時宗の孫にあたります。

ここで6月4日後醍醐上皇は京都に戻り「自立登極」します。こういうことをした天皇は他にいないのでこれがどういう意味を持つかは議論の多い所ですが、基本的には重祚になるものと思われます。

しかし通常の重祚ではなく2年前の退位を取り消したような形をとったようで、元号も元弘3年に戻してしまいました。結果歴史から本来正式に即位したはずの光厳天皇は正式な天皇としての地位を消去されてしまいます。そして翌年1月29日建武に改元。

これが建武の中興です。

しかし建武3年、後醍醐天皇の親政と貴族中心の政治運営に不満を持った武士たちは光厳天皇の弟の豊仁親王を新たに天皇に擁立(光明天皇)。天皇は足利尊氏を征夷大将軍に任命。ここで天皇家がふたつ並立するという前代未聞の事態になりました。この「南北朝」の時代はこのあと60年も続きます。

なお、日野資朝らの日野家からは後に代々足利将軍の妻を出すようになります。中でも日野富子は有名です。また日野家の傍系から浄土真宗の開祖親鸞が出ています。この家は藤原北家の分家の一つにあたります。

(日野俊基の家系がよく分からない。日野資朝と必ずしも近い親戚ではないようである)

また足利尊氏・新田義貞は清和源氏の末裔、北条氏は平家の一門です。この時代の武将の中で一番目立った活躍をした楠木正成は庶民の出身で、当時流行していた「悪党」の一人でした。彼は伊賀の忍者のルーツとも関わっています。

(1997-05-21執筆)(2001-05-24加筆修正)


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