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源実朝暗殺(1219),
九条頼経が鎌倉幕府将軍に(1226)

建保7年(1219)1月27日、鎌倉3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に殺害される事件が起きました。

公暁はすぐに捕らえられて処刑。ここで、誰を次の将軍にするのか、というのが問題になりました。

        (1)      (2)源義朝―――源頼朝――――源頼家――――一幡|      | (3)    +―公暁+―源義経  +―源実朝  +―千寿(栄実)|             +―禅暁|             +―鞠子(竹御所)+―(女性)―(女性)―倫子 (4)  ‖‖―三寅(九条頼経)  (5)藤原道家    ‖―――――九条頼嗣大宮局     ‖(藤原親能の娘) 檜皮姫(北条経時の妹)

  ※数字は将軍の順。「倫子」は本当は手偏(掄)。北条家と関係の深い西園寺公経の娘である。

頼朝が亡くなったあと、将軍職は頼家が継ぎましたが、頼朝に比べるとどうしても軽量感が否めず、幕府はただちに将軍の権限を縮小して、北条家をはじめとする幕閣が政治を行う体制を整えました。

そんな中、頼家は病気になります。ここで北条家は頼家にもしものことがあった場合、頼家の嫡男・一幡に関東を、頼家の弟・実朝に西国を管理させる、という方針を発表します。これに反発したのが一幡の母の父・比企能員ですが、反撃するまもなく、北条時政の奸計にひっかかって殺害されてしまいました。(1203比企能員の変)

北条はこの騒ぎに乗じて、一幡とその母若狭局も殺害、頼家を無理矢理退位させて、伊豆に幽閉します(後殺害)。

そして、将軍職は北条家お気に入りの実朝に引き継がれたのです。

実朝は自分の立場をよくわきまえており、政治は北条家にまかせて自らは文芸にいそしみ、「飾りの将軍」をよく演じていました。

しかし、頼家の息子の公暁はこの実朝を父の仇と考え、何年も準備をした上で暗殺を決行します。

その日、公暁は鶴ヶ岡八幡の石段のそばの大銀杏の陰に隠れており、実朝が参拝を終えて降りて来たところに、飛び出して殺害したものです。この時、公暁は法師の姿であったとも、女装していたとも伝えられています。

建保7年1月27日酉の刻(夕方6時頃)のことでした。

公暁は同時に一緒にいるはずの北条義時も殺害するつもりでしたが、なぜかこの日に限って義時は体調不良(^^;を理由に来ておらず、代役を務めていた源仲章が斬り殺されてしまいました。

公暁は三浦義村を頼りますが、義村は公暁に「迎えを出すから待っているように」と伝えた上で北条義時に通報します。義時の返事は「すぐに公暁を殺害せよ」とのことでした。かくして長尾定景・雑賀次郎が討手として差し向けられ、公暁はその日の内に討ち取られてしまいました。

さて、この時点で、実朝には子供はありませんでしたが、頼家の息子がまだ2人残っていました。

一人が千寿で、彼は建暦3年(1213)の和田義直の変に連座して幽閉されていましたが、この事件からまもなく、自害させられています。

もう一人は禅暁といいました。彼はこの時点で健在ですが(翌年4月15日に殺害される)、後継者としては全く問題にされなかったようです。

北条政子は天皇家の皇子を次の将軍にしたいと考え、その交渉を行いました。しかしこの時点では皇子将軍は実現せず、結局頼朝の姪の孫にあたる当時2歳の三寅(寅の年、寅の日、寅の刻に生まれたためこの名がある)が次期将軍として鎌倉に下向することになりました。

これが建保7年(1219)7月19日のことです。

三寅はやがて頼経と名乗り、嘉禄2年(1226)1月27日、4代将軍に就任しました(9歳)。実朝が暗殺されてからちょうど7年後のことでした。

そして4年後、13歳になった頼経は、頼家の娘・鞠子(竹御所,当時28歳)と結婚します。しかし竹御所は天福2年(1234)7月27日、難産の為死亡(子供も死産)、ここで頼朝の血統は完全に途絶えました。

このあと将軍職は頼経と、藤原親能の娘大宮局との間の子供、頼嗣が継ぐことになります。


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