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キリスト教解禁(1873)

キリスト教は少なくとも奈良時代には、ひょっとすると飛鳥時代に既に日本に入ってきていたであろうと言われています。この時のキリスト教は中国でいうところの景教、ヨーロッパでは異端とされたネストリウス派のキリスト教です。

日本書紀で聖徳太子が聖人に会う話が載っています。その聖人が死んだので墓に葬った所、あとで墓はもぬけの殻になっていたと書かれており、これはキリストの死と復活の話を下敷きにして成立した伝説ではないかと言う人もいます。

しかしキリスト教が正式に日本に伝わったのは天文18年(1549)カトリックのイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にやって来た時ということになっています。彼は7月3日に鹿児島に渡来、翌年にはいったん長崎県の平戸島に移ったあと、山口を経て京都に行き、帰り再び山口に滞在して布教を行いました。このため平戸や山口には現在でもザビエルの史跡が残されています。

当時は戦国時代でキリスト教に対する扱いは各大名ごとにまちまちでしたが山口や豊後などでは暖かく迎えられ、信長も当時各地の一向一揆、比叡山、本願寺などに手を煩わせられていたこともあり、1569年にフロイスと謁見して京都在住を許すなど、是認の方向で動きます。そして1571年の比叡山焼き討ち、1575年本願寺との最終攻防と続く訳です。

しかしキリスト教徒があまりにも増加すると、今度はそれが浄土真宗や一向宗並みのやっかいな存在になってきます。そこで政権は今度は弾圧の方針に転換、1587年宣教師国外追放のふれがあったのに始まり、秀吉は1588年には長崎の信徒の追放、そして1589年にはとうとうキリスト教禁止令が出ました。1596年には長崎で26聖人殉教などもあります。

それでもいったん根付いた信仰がそう簡単に消えるものではありません。たびたびの弾圧にもキリスト教徒は生き延び続け多くの殉教者を出します。そして1637年にはキリスト教徒らと圧政に苦しむ農民一揆が合流した島原の乱が勃発。幕府は収拾に苦しみ最後は将軍家光の側近中の側近松平伊豆守を派遣してやっと乱を鎮めました。この後、キリスト教に対する弾圧は更に厳しくなり、全国民をどこかの寺の信者に組み込む檀家制度を進めるとともに、踏み絵などによりキリスト教徒の取り締まりを行います。

キリスト教徒側も最初は踏み絵を拒否して殉教していましたが、やがてこれでは教えを後世に伝えることができないとして、踏み絵は拒否せずに平気な顔で行い、その後で懺悔をするという方式に改めます。このため長いキリスト教禁制の時を彼らはずっと信仰を維持し続け、再び国が開かれた後の慶応4年その一番厳しい弾圧のあった長崎に信者が残っていたことをやってきた宣教師が発見、世界に衝撃を与えました。

しかしこの発見されたキリスト教徒は騒ぎになってしまったため逮捕されて流刑になってしまいます。このような対応に対してヨーロッパ諸国は苦言を呈し、やがて明治6年(1873)の今日、明治政府はしぶしぶ全国のキリスト教禁制の高札を撤去。300年にわたるキリスト教禁制が解かれました。

この禁制が解かれた時、政府の一部には、これを機会に西洋諸国と同様に、日本もキリスト教を国教にすべきだとの意見もありましたが、結局は神道派が勝利したようです。

そのため、キリスト教は今度はこの国家神道政策の前に苦労を続けますが、その中からも内村鑑三や同志社を作った新島襄、救世軍の山室軍平などの傑出した人物が出、戦後は宗教の自由化により、やっと堂々と活動ができるようになりました。現在日本国内のキリスト教徒は約100万人といわれます。


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