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長崎原爆の日(8.9)

8月9日は長崎原爆の日です。昭和20年(1945)、アメリカ軍は6日の広島に続いて長崎に第二の原爆を投下しました。午前11時2分のことです。

広島の原爆はリトル・ボーイと呼ばれましたが、長崎の原爆はファット・マンと呼ばれます。広島の原爆はウラン爆弾でしたがこちらはプルトニウム爆弾で、広島より強力、TNT火薬21000トン分の威力とされます。しかし平地の広島に比べて谷間の長崎は、地形が原爆の被害の拡大を防ぎました。それでもこの原爆で数ヶ月以内に7万人が亡くなり、その後亡くなった人を入れると、やはり15万人ほどの人が命を落としたとされます。長崎にしても広島にしても、役所の記録が失われた上に、朝鮮などから徴用されて働きに来ていた人の数や一時的に疎開してきていた人などの数は分からないものが多く、本当の被害者数というのは永遠に不明のままでしょう。

広島に原爆を落とした飛行機はエノラ・ゲイですが、長崎に原爆を落としたのはボックス・カーというB29です。エノラ・ゲイと同様早朝テニアン島を出発し、当初第一目標の小倉上空に達しますが、天候が悪かったため投下を断念、目標を急遽第二目標の長崎に変更しました。そして長崎でも市の中心部には投下できず、少し北部の浦上地区、松山町上空9600mから投下。高度500mで炸裂した原爆はわずか0.2秒後には半径200mもの火球を作ります。この火球の表面温度は太陽の表面温度並の8000度にも達しました。

この火球のエネルギーはその大半が爆風となって長崎市を壊滅します。私の中学の時の数学の先生などは当時学校で授業を受けていて、たまたま柱の影の席に座っていたため助かりました。突然凄い音と強い風が飛び込んできて、何が起こったのか分からなかったといいます。その教室で授業を受けていたクラスメートは大半が即死しています。

広島でもそうですが、長崎でもみんな、すぐそばを爆撃でやられたのだと思ったようです。ところが、どうもすごく広い範囲がやられているので驚きます。そして、数日後今度は「今度の爆弾は直接やられてなくても、爆破された跡を歩いただけでもやられてしまうらしい」という噂が立ちます。むろん、その時には既にそのようなことを知らない近所の町の人たちからなる大勢の救援隊が強い放射能の残る焼け跡を歩き回っていました。彼らもまた放射能障害によって命を落とすことになります。

広島の原爆投下を招いたのはポツダム宣言に対する日本政府のコメント「黙殺」という微妙な言い回しが、英訳された時に「ignore」と訳されてしまったことが原因であるといわれます。「黙殺」と「無視」ではやはり違います。「黙殺」というのは、今コメントはできないが深く受け止めているということを表します。「無視」では全然気にしてないことになります。気にしないというのなら体で分からせてやろうではないか、ということになるのは目に見えていました。一方、長崎の原爆投下を招いたのは日本政府の優柔不断でしょう。この時点で降伏する方針はもう固まっていたものの国体維持の条件をつけるべきかどうかでもめていました。その会議をやっている最中にこの原爆は投下されています。会議は半々に分かれ、本来制度上政治に口を出すことのできない天皇に敢えて意見を求めます。昭和天皇はむろん無条件降伏すべきだとの意見。その方針がアメリカに通知され、ようやく戦争は終結に向かいました。またここでゴチャゴチャやっている間にちゃっかりソ連が不可侵条約を破棄して日本に宣戦布告。わずか一週間しか戦っていないのにどさくさにまぎれてごっそり領土をぶんどって行きました。

長崎・広島の原爆の犠牲者、各地の空襲でなくなった方々、南方その他で玉砕した人々・させられてしまった人々、特攻などという無茶な戦い方をさせられて亡くなった人達、各地の戦闘で亡くなった人達、無意味な虐殺で命を落とした人達、この戦争で亡くなった全ての人たちの冥福を祈ります。合掌。


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