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ノルマントン号事件(1886)

日本人なら、この屈辱は忘れてはいけません。

1886年10月24日、ノルマントン号事件が起きました。

この日紀州沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が沈没しましたが、この時イギリス人の乗務員が全員脱出したのに、乗っていた日本人の船客23人は全員水死しました。

この事件に関して当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にありました。そしてこの領事の裁判の結果、船長は無罪となり、日本国民の怒りが爆発しました。

  日米修好通商条約の条文(他国との条文も同様)

  第六条 日本人に対し法を犯せるアメリカ人はアメリカ領事裁判所にて吟味の上アメリカの法度を以て罰すべし。アメリカ人へ対し法を犯したる日本人は日本役人糾しの上日本の法度を以て罰すべし。

  これを締結した時の幕府のスタッフにはここにとんでもない問題が潜んでいることに気付く者はいなかった。折角アメリカが来る前に色々外国との付き合い方を教えてあげるから開国の条約を結びましょうと言ってくれたオランダの誘いを断った報いである。

政府はこのような問題を引き起こしている不平等条約の改正を実現するため、まずは日本が欧米と対等な力を持つ国であることをアピールする必要がありました。

そのため外務卿・井上馨らが中心になって国内の法典の整備に務めるとともに、日本にも西洋風の社交クラブを作ろうと鹿鳴館を創設しました。(もっとも当時の西洋人から見れば鹿鳴館は場末の酒場程度のセンスでできていたとのことです)

しかし井上の急速な欧化政策はそれ自体が国民の反発をくらい井上は失脚します。そしてその後任の大隈重信を経て、その次の外務大臣陸奥宗光がイギリスと精力的な交渉を行い、1894年、ついに領事裁判権の撤廃などを含む新条約を締結することに成功しました。

屈辱的なノルマントン号事件から8年、不平等条約が結ばれてから40年目の快挙でした。

このあと日本は日清戦争に勝利して「列強」の仲間入りをします。

しかし外面だけを欧米並にしたものの国民意識が十分付いて行っていなかったことが軍部の暴走を許し、満州侵略・太平洋戦争の悲劇へと突き進む元になっていきました。


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