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将軍籤引(1428)

応永35年(1428)1月19日、前日に亡くなった室町幕府4代将軍足利義持の後継者を決めるためくじ引きが行われ、義円が当選して、6代将軍に決定しました。

3代将軍足利義満の時に頂点を極めた室町幕府も、義満没後は急速に権威を失墜していきます。

義満は自分こそ日本国王であり、天皇は単に儀礼を司るだけの存在であると考え、儀式などにおいても、将軍の後ろに天皇が従うような様式を要求しました。

しかし義持はやはり日本の中心は天皇であって、将軍はそれを支える者の一人にすぎないと考えました。そして義満が苦労して勝ち取った幕府の優先権を自ら否定し、結果的に将軍家の地位を引き下げてしまいます。

義持は応永30年、息子の義量に将軍職を譲りますが、その5代将軍義量は2年後亡くなってしまいます。

ここで本来なら次の将軍を定めるべきなのですが、それまでも義量が将軍をしているといっても実際に幕府を動かしているのは既に引退した前将軍の義持でした。そして義持は将軍職などそんな大したものではないと考えているため、将軍空席のまま幕府を運用しつづけます。

そして結局、後継者を決めないまま、応永35年1月18日亡くなってしまいました。

こうなると、幕府としてはきちんと将軍を置かなければ格好がつかなくなります。しかし何人かいる候補者の中で、抜きんじて力のある者はいませんでした。

そこで仕方なく、くじ引きで決めることになった訳です。

くじ引きで決めるというと、非常にいいかげんなもののように思われるかも知れませんが、実はそうでもありません。現在でも地方の議員選挙で同票になったとき、くじびきで当選者が決められています。サッカーのワールドカップでもPK戦でも決着がつかない場合、くじ引きで勝者を決めることになっています。

実は天皇を決めるのに、似たようなことが行われた前例もあります。

文徳天皇の時、皇太子を決めるのに惟喬親王派と惟仁親王派が激しく対立し、とてもどちらかに決められない状態であったため、競馬と相撲をおこなって勝った方を皇太子にすることになりました。勝ったのが惟仁親王(清和天皇)です。

また、安徳天皇が平氏とともに西海に行ってしまったあと、後継天皇を誰にするかについて、惟明親王・尊成親王・北陸宮(以仁王の遺児)の3人が候補に挙がり、決着が付きませんでした。この時も後白河上皇の指示により、神祇官と陰陽寮で卜筮が行われ、尊成親王が後継者と定められました(後鳥羽天皇)。

古来くじ引きというのは、人間の判断では決着がつかないことを神意によって決めるために行われたのです。

さて、応永35年の次期将軍を決めるくじ引きは三条八幡宮の神前で行われました。

候補者は4代将軍義持の弟4人。全員出家していましたが、当選したのが青蓮院住職の義円でした。

義円は早速還俗して義宣(よしのぶ)と名を改めますが、さらに「義宣では世を忍ぶになってしまう」と言って義教(よしのり)と改名しました。

この義教は何事にも消極的であった義持とは正反対に非常に過激な人でした。

後継者を狙っていたもののくじ引きに加えてもらえなかった足利持氏が反抗的な態度を取るとすかさずこれを攻め滅ぼしたのをはじめ、比叡山の僧を多数斬り、一色義貫・土岐持頼など幾人かの大名がささいな罪で殺害されました。賦課を課して従わない商人も死罪になりました。

人々はこの暴君の恐怖政治におののきます。そしてとうとう嘉吉元年6月24年、苦しい立場に追い込まれていた赤松満祐が饗宴を開くとの名目で将軍を自宅に招待、すきをみて義教を殺害してしまいました。(嘉吉の変)

以後、室町幕府の権威はますます低下していきます。


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