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白村江の戦い(663)

天智天皇2年(663)8月27日、日本と百済(くだら,baeg-je)の連合軍は朝鮮半島の白村江(はくすきのえ,baeg-chon-gang)で唐(とう,tang)と新羅(しらぎ,sil-la)の連合軍に歴史的な大敗を喫しました。日本が外国との戦争で明確に負けたのはこの時と太平洋戦争の2度だけです。

朝鮮半島には紀元前4世紀頃南部に韓の国、北部に朝鮮の国など幾つかの国が並立していましたが、やがて韓以外は中国の漢(かん,han)に侵略されて楽浪など幾つかの属国に分割されました。しかしこの楽浪は非常に高い文化が栄え、金印で有名な北部九州の大国・那(な,1世紀頃)もこの楽浪を通じて漢との交流を持っていました。

しかしやがて漢(かん,han)の力が衰えてくると朝鮮半島東北部に高句麗(こうくり,go-gu-ryeo)が誕生。一時は半島全部を支配下に起きますが、4世紀になると南部に百済(くだら,baeg-je)と新羅(しらぎ,sil-la)が誕生して、朝鮮半島は三国時代に入ります。

当時は中国も多数の国に分かれて群雄割拠の状態でありとても朝鮮半島に介入できる状態ではありませんでした。ところが日本では大和朝廷が日本列島の関東以西から北部九州までをほぼ勢力下におさめ、その勢いにのって朝鮮半島まで進出してきます。そして半島南部に任那(みまな)を確保しました(369)。

この後日本は200年間に渡りここを足場に朝鮮半島の情勢に干渉し続けますが、取り敢えずは高句麗・新羅・百済の勢力は均衡したまま事態は推移していました。動き出したのは日本では欽明天皇の時代6世紀半ばです。新羅が力を付け始め圧迫を感じた百済の聖明王は日本に仏像その他のプレゼントをしてご機嫌をとって援軍を出してもらおうとしました。

ところがこの仏像が日本で神道対仏教という宗教論争を引き起こしてしまいます。そのため援軍どころではなくなっている内に聖明王は新羅に殺されてしまいました。新羅はその勢いで任那も滅ぼし、勢力範囲を大きく広げます。そんなことをしている内に中国では隋が誕生。これはすぐに滅びますがそれに代わって強大な唐帝国が出現しました。新羅はこの唐と結んで朝鮮半島を完全に支配下に置こうとしました。その間日本では結局仏教派が勝ち、聖徳太子の指導のもと、それまでの大王個人の力による武力支配から本格的な法的統治体制への移行が行われその後国内も安定してきていました。

そこで百済は再度日本に支援を要請します。時の実力者である皇太子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)はこれに応え、母である斉明天皇を立てて大軍を率いて出兵の為九州まで来ますがここで天皇が病気で亡くなってしまいました。皇子はいったん天皇の遺体を都まで運んだ後、即位の式もあげずにそのまま九州へとんぼ返り、出兵の号令を掛けました。

戦いは1年以上に及びました。百済同様新羅の圧力に悩んでいた高句麗もこれに呼応しそうな動きもありました。そして運命の8月27日、白村江に170隻の船で陣形を敷いていた唐・新羅連合軍に対し、これを突破すべく日本百済の連合軍の船400隻が攻撃を加えます。ここで船の数はこちらが多くても船のサイズが違っていたとも言われます。また日本軍の主力が長い航海で疲労していた為しっかり準備を整えていた相手に翻弄されてしまったとも言われます。

結果は大敗。何とか挽回すべく捨て身の攻撃を敢行した一隊も左右から挟み撃ちにあって全滅。

ここで日本はもう軍を引く以外の選択肢はなく、ほどなく他の拠点も唐・新羅の連合軍に落とされて、百済は滅亡します。そして残る高句麗も唐に滅ぼされ、しばらく後新羅に譲渡されます。こうして朝鮮半島は親唐の新羅により統一されました。

中大兄皇子は敗戦のショックを抱えたままいったん大和へ戻り、即位して天智天皇となった後、万一新羅がこの戦勝の勢いにのって日本に攻めてきた場合の用心に九州に水城(みずき)を建築。全国から兵士を集めて防人(さきもり)として防衛の任務に当たらせました。そして都も万一新羅が九州を占領した後、瀬戸内海を渡って攻め込んで来たとき逃げやすいように都を琵琶湖沿岸の大津に移すのです。この大津は壬申の乱で天智天皇の弟の天武天皇が天下を取るまで日本の首都でした。


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