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光明子皇后になる(729)

天平元年(729)8月10日、藤原光明子(安宿媛,あすかべひめ)が聖武天皇の皇后に立てられました。これは藤原家から出た最初の皇后です。事情を説明する為にまず系図を見ていただきましょう。高野新笠‖   5049 ‖−−−桓武天皇+−−−−−−−−施基親王−−光仁天皇   ‖| 43     44       ‖     ‖+−元明天皇 +元正天皇 犬養広‖−他戸親王‖  5135,37    38   |41   ‖−+ 42    ‖ ‖     ‖ +平城天皇斉明天皇 +天智天皇+持統天皇‖ +文武天皇 45‖−井上内親王 ‖ |‖−−+    40 ‖−草壁皇子  ‖−聖武天皇      ‖−+舒明天皇 +−−−−天武天皇      ‖   ‖ 46,48    ‖ |5234                +−藤原宮子 ‖−称徳天皇  ‖ +嵯峨天皇藤原鎌足−−藤原不比等−+      ‖       ‖+−−−−藤原光明子     ‖|              ‖+−藤原宇合−藤原良継−藤原乙牟漏

当時、天皇の系譜は壬申の乱による天武天皇の勝利を受けて、天武天皇系に流れて来ていました。ここに藤原一族は巧みに介入し、何とか自分の血統を天皇家に組み込もうとします。特に藤原不比等はまず賀茂朝臣姫との間の娘、宮子を文武天皇の夫人にすることに成功し、彼女は聖武天皇を産みます。

そして更にその聖武天皇に今度は有名な犬養三千代(美努王の元妻)との間の娘である安宿姫(美称:光明子)を嫁がせます。藤原家は天皇の家系ではなく臣下の家柄ですので、彼女の身分も当然夫人でした。そして彼女も又皇子を産みます。これが基王で、生まれて2ヶ月後には早速立太子されました。このままだと次の代の天皇も藤原家の血をつぐものとなって藤原家は安泰と思われました。

ところがここで不幸な出来事が置きます。この幼い皇太子は生まれて1年もしない内に他界してしまうのです。このことは後に光明子及び聖武天皇を仏教にのめりこんで行かせる原因となります。

ここで当然両親の嘆きは深いものでしたが、それ以上にショックだったのは藤原不比等でした。完全に計画が狂ってしまったためです。そして長屋王の事件が起きます。長屋王(最近の研究で実は親王であったとも)は当時左大臣でしたが、家系的にいって、聖武天皇に皇族か有力氏族の娘を母とする皇子が生まれなければ次の天皇になれる位置にありました。事件というのは、この皇太子基王の死が長屋王の呪詛によるものだという噂が流れたのです。

結局長屋王は自刃に追い込まれます。この結果聖武天皇のあとを継げるような適当な男子皇族がいなくなってしまったのですが、その長屋王の死の半年後の天平元年(729)8月10日、突然光明子の立皇后の詔が出るのです。

これは非常に異例のことでした。当時の皇后というのは単なる天皇の妻ではなく、国政上の共同統治者でもあり、天皇亡き時はその後継者になる資格をも持つ地位でした。従って少なくともここ300年ほどは皇族以外のものが皇后になることは、あり得なかったのです。そこでこの光明子の立皇后は藤原不比等が万一の場合光明天皇を実現するためのステップだったのではないかという推理をする人もあります。

しかし結果的には天平10年、聖武天皇は光明子との間の、皇太子時代にできた女の子、安倍内親王を皇太子に立て、天皇家の血筋が途切れてしまうことは回避されました。(安倍皇太子は日本史上唯一の女性の皇太子。)しかも、安倍内親王(称徳天皇)は結婚しなかったため、ここで藤原系の皇族の血は途絶えてしまいます。この時代は藤原家にとっては苦しい時代でした。

その後の歴史をたどると、称徳天皇は密教僧の道鏡にのめりこみ、道鏡に天皇の位を譲ろうとし、ここに2度目の天皇家血筋断絶の危機が訪れます。しかしこれは和気清麻呂の勇気ある行為で阻止され皇統は聖武天皇と犬養広刀自との間の娘井上内親王の夫であり、天智天皇の血を引いた皇子である白壁王(光仁天皇)へと引き継がれます。そして二人の間には他戸親王が生まれて、皇統は安泰と思われました。他戸親王は天智天皇系と天武天皇系の両方の血筋を引く親王でしたので、皇族たち・有力氏族たちの広い支持があり、順調に皇太子になります。

ところがここにそれでは自分たちの出番がなくなる藤原一族が再度挑戦してきます。なんとも曖昧な理由で他戸皇太子は廃されてしまい、藤原乙牟漏と結婚していた山部王(桓武天皇)が代わって皇太子になるのです。そして結果的に皇統はこの桓武天皇と藤原乙牟漏の間の皇子である平城天皇・嵯峨天皇へと受け継がれていき、ここから藤原一族1000年の栄華が始まります。もっとも桓武天皇や嵯峨天皇の時代には非常に優秀な天皇であった桓武や嵯峨を制御できるような有能な人物が藤原家には出ず、強引に桓武天皇を誕生させた藤原百川も天皇即位前に死んでしまっていましたので、藤原家の血筋は入ったものの藤原氏の政治関与が始まるのはもう少し先になります。

(日本の歴史において多くの歴史の本は男性系の系図しか書いていませんが、実は女性系の系図というのが、非常に重大な意味を持っています。光仁は聖武の娘と結婚していたから天皇になれましたし、桓武も藤原家の娘と結婚していたから天皇になれました。古くは斉明天皇も母が蘇我氏の血を引く皇族であったからこそ皇后になり天皇になれています。)

しかしこの藤原乙牟漏も光明子にならって皇后の地位を与えられており、こうした後の歴史を見てみても光明子の立皇后の意義は歴史の上で非常に大きかったといえるでしょう。


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