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孝徳天皇即位(645)

皇極天皇4年(645年)6月12日、乙巳の変が起こり蘇我蝦夷・入鹿親子が中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足(藤原鎌足)に倒され、いわゆる「大化の改新」が始まりました。天皇は退位し、中大兄に後事を託しますが、皇子は自分では即位せず、14日、叔父の軽皇子を天皇(孝徳天皇)にして、自らは皇太子として政治の実務を執りました。

これは50年前に聖徳太子が、崇峻天皇暗殺の後、やはり自らは即位せず伯母の推古天皇を立てて皇太子として政治の実権を取った方法を踏襲したものと思われます。当時の聖徳太子は19歳。この時の中大兄皇子も20歳です。

仁賢天皇=====春日大娘皇女 | +--------------------------+---------+ | | | 手白香皇女=継体天皇=目子媛 | 武烈天皇 | | | 蘇我稲目 | 宣化天皇=====橘仲皇女 | | | 堅塩姫=========欽明天皇==========石姫 | | +-----+---------+ | | | | | | 桜井皇子 推古天皇===敏達天皇=====広姫 | | | 用明天皇 | 大俣王===彦人皇子===糠手姫皇女 | | | | 蘇我馬子 | 吉備姫王===========茅淳王 | | | | | 刀自古=聖徳太子 +---+--+ | 蘇我馬子 | | | | | 山背皇子 | 皇極天皇============舒明天皇===法提郎媛 | (斉明天皇) | | 阿倍内麻呂 | +-----+------------+ 古人皇子 | | | |蘇我石川麻呂| | 小足媛===孝徳天皇==間人皇女 | | | | | | 遠智娘===天智天皇==倭姫王 有馬皇子 | | | 額田王===天武天皇===持統天皇| | | 十市皇女=============弘文天皇

この時代は天皇が政治的に大きな位置を占めていた時代ですので、この頃の皇位継承争いというのは凄まじいものがあります。

推古天皇の皇太子であった厩戸皇子(聖徳太子)が早死にしてしまった為、推古天皇の没後誰を天皇にするか、皇族や有力豪族の間で意見が大きく分かれました。主として聖徳太子と蘇我刀自古の間の皇子・山背大兄皇子を押す意見と敏達天皇の孫で法提・宝という蘇我系の二人の姫を妃に持つ田村皇子を押す意見とが対立しますが、結局田村皇子が制し、山背大兄皇子を支持していた蘇我麻理勢(馬子の弟)は殺されてしまいます。

こうして田村皇子は即位して舒明天皇となり、宝姫(舒明天皇の姪であり欽明天皇の曾孫)が皇后になります。そして舒明天皇が亡くなると皇后がその後をついで皇極天皇となりました。

ここで舒明天皇が亡くなれば、さすがに次は自分だろうと思っていた山背大兄皇子としては面白くありません。不穏な空気が流れると時の実力者蘇我入鹿は先手を打って山背大兄皇子とその一族を全員殺してしまいました。

こうなるとビビったのは中大兄皇子です。入鹿は恐らく入鹿の従弟にあたる古人皇子を立てて来ることが予想されましたので、そのためには邪魔になる自分は絶対殺されると確信されました。一方当時仏教を背景とした蘇我一族に対して反抗の機会を狙っていた神道を背景とした中臣家の鎌足は最初軽皇子(後の孝徳天皇)に接近しますが、大器ではないとみて見限り、若くて血気盛んな中大兄皇子と手を結びました。二人は蘇我入鹿を倒すことで同意しますが、その為には蘇我一族の中にも協力者が必要であると考え、蘇我石川麻呂を仲間に引き入れます。

そして決行は皇極天皇4年6月12日です。三韓の使者が天皇に謁見する行事があり、蘇我入鹿も当然最高実力者として出席します。鎌足らは宮中の芸人に言いくるめて、ジョークのように振る舞って入鹿の剣を取り上げてしまいました。入鹿もまさかそのような謀略があるとは知らず、取り上げられたまま笑って席につきます。しかしこの三韓の使者の一行は実はすべて鎌足の手の者にすりかえられていました。しかも使者に代って上表文を読んだのは蘇我石川麻呂です。むろん入鹿は石川麻呂の裏切りを知りません。式典が進む中、突然中大兄皇子が入鹿に斬りかかりました。

傷を受けて地面に転がりながら、入鹿は皇極天皇に助けを求めます。天皇も驚いて自分の息子である中大兄に「何をするのか」と咎めます。中大兄はここで母である天皇に「入鹿は天皇をないがしろにし、皇子を次々と殺していこうとしています。天皇家よりも入鹿が大事なのですか?」と厳しい言葉を向けます。すると天皇は無言でその場を立ち去ってしまいました。見捨てられた入鹿はその場にいた者たちになぶり殺しにされてしまいます。そして異変を聞いた入鹿の父・毛人はおじけづいて自分の家に火を放って死んでしまいました。

皇極天皇は中大兄に「もう後はあんたがやりなさいよ」と言って退位してしまいますが、中大兄はここで天皇になるより、聖徳太子がやったように皇太子・摂政として動いた方が自分の政策を進めやすいと考え、自分では即位せず叔父の軽皇子を天皇の位につけてしまいます。そうして中臣鎌足・蘇我石川麻呂とともに3人のトロイカ体制で新しい政治体制の確立を図りました。このクーデターをこの年の干支をとって乙巳の変といいますが、明治以降はこれを歴史的に過大評価して「大化の改新」とも呼ぶようになりました。

なお、古人皇子は中大兄が実権を取った以上、自分は確実に除かれると恐れて出家して吉野に赴きますが、結局謀反の疑いを掛けられて殺されてしまいます。彼は後の大海人皇子(天武天皇)のようにはなれませんでした。また孝徳天皇皇子の有馬皇子も同様に謀反の疑いを掛けられて殺されています。

(この時代はまだ嫡子継承のルールがなく、まさにやるかやられるかの時代なので、中大兄を責めることはできない。嫡子継承ルールを定めたのは持統天皇である)

また、蘇我石川麻呂もやがて邪魔にされるようになって、やはり同様に殺されます。その後は中大兄の実弟の大海人皇子(後の天武天皇)が台頭して、新しいトロイカ体制に移行します。そしてやがて鎌足が死去するとこの体制は崩れて、壬申の乱へと歴史の歯車は動いていくのです。

--------------------------------------------------------------------昨日の大化の改新で出てくる「蘇我石川麻呂」ですが、時々「石川麻呂」が名前と思っている人もあるのですが「蘇我石川」までが姓で「麻呂」が名前のようです。つまりこの人は「蘇我」と「石川」という2つの姓を持っています。その孫が日本の則天武后ともいうべき持統天皇(さらら姫)。この何とも可愛い名前を持つ彼女は、子供の頃父(天智天皇)が祖父(石川麻呂)を殺すのを見て、少女時代には夫(天武天皇)が弟(弘文天皇)と天下分け目の戦争をして倒すのを見て、ものすごく強い女性になりました。

里中満智子「天上の虹」を読んだ方は、様々な事に悩む持統天皇の姿を覚えておられると思いますが、私は多分彼女はあそこに描かれているより、もっと芯の強い女性だったのではないかと思っています。

一部の人には自分の子(草壁皇子)/孫(文武天皇)を皇位につける為にライバルとなる皇子を次々と殺害した、ということで不評の彼女ではありますが昨日もチラっと書いたように、この時代はまさにやるかやられるかの時代だった訳で、最後に勝ち残った人はそれだけ手も汚していることになります。一つ歴史の歯車が違っていたら、大津皇子がクーデターを成功させて皇位を手中にし、さらら姫と草壁皇子は殺されていたかも知れません。

大津皇子について、日本書紀は、この皇子はほんとに優秀で立派な皇子であったと記しています。聖徳太子などもそうですが、こういう誉め言葉が出てくる場合というのは、誉めておかなければならない理由があるからでしょう。梅原流に言えば「鎮魂の必要あり」ともいえます。

先日書いた阿倍内麻呂のもう一人の娘・橘娘は天智天皇に嫁いで新田部皇女をもうけており、彼女は天武天皇に嫁いで舎人親王を産んでいます。彼が日本書紀の編纂者です。天武天皇もほんと中立的な人物を選んでくれました。

(一般の歴史の本では男系の系図ばかり書いてあるが、実は昔の系図ほど 女系が面白い)


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