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大津皇子の変(686)

朱鳥元年(686)10月2日、大津皇子が謀反の罪で逮捕され、翌3日死を命じられました。

この朱鳥という年号はひじょうに変な年号です。実は大化改新の時に大化という年号が初めて作られたのですが、大化5年のあと白雉5年があり、その後しばらく年号が使用されていません。そして突然この年32年振りに年号が定められるのですが、この朱鳥はこの年だけで終わってしまい、次は大宝元年まで14年間、また年号無しの状態が続いています。

それはさておき、この年の9月9日、天武天皇が亡くなりました。天武天皇には多数の皇子がいました。一応皇后の讃良(さらら)皇女との間の草壁皇子が皇太子にはなっていましたが、讃良姫の姉の大田皇女との間の大津皇子や、母の身分は低いものの高市皇子なども、人々に人気がありました。

そんな中、讃良姫は誰が後を継ぐのかというのを明確にしないまま、取り敢えず自ら政務をとります。その時、突然この事件が起きるのです。

こういう事件がなくても、次の天皇は草壁皇子という線で何とかまとまっていたのではないかと思われます。しかし、それ故に大津皇子側ではこのようなトラブルが起きないよう充分な警戒をしておく必要があったと思いますが事件は起きてしまいました。謀反といっても、どういうものだったのか日本書紀は何も語っていません。しかし「発覚」の翌日に死を賜るというのも、かなり無茶な感じはします。しかも、この事件に関して連座した大津皇子の周辺人物はふたりだけで、いづれも伊豆と飛騨に流罪になっただけ。その為この事件は一般に、讃良姫が自分の息子・草壁皇子の最大のライバルを除くためにでっちあげたもの、と言われています。

ところが、ここまでしたにも関わらず、草壁皇子は天皇になることができませんでした。3年後の春、皇子はわずか28歳で病没。こんなに即位を引き延ばしていたのは、大津皇子に対する処置について、かなりの反発があったことが想像できますが、そのほとぼりが冷めるのをまっている間に、肝心の草壁皇子がなくなってしまいます。やむを得ず、讃良皇后は翌年自分で即位。(持統天皇)そして、野心の全くない高市皇子を副官(太政大臣)に使って、天武天皇がやり残した各種の改革を実行に移していきます。

そして、やがて天皇の地位は、草壁皇子の遺児・軽皇子に引き継がれることになります。(文武天皇)


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