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斉明天皇の重祚(655)

655年の1月3日(ユリウス暦では同2月14日)、皇極上皇(62歳)が重祚。再び皇位に就きました。諡号は斉明天皇とされています。

皇極天皇=斉明天皇の父は茅渟王(彦人皇子の子、つまり舒明天皇の弟)、母は吉備姫王(桜井皇子の娘−桜井皇子は欽明天皇と蘇我堅塩姫の間の子)です。このあとの天皇は全て皇極天皇の子孫になっているので、この後の皇統には全て蘇我家の血が入っていることになります。

皇極天皇の4年6月12日(ユリウス暦645年7月10日)、中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我倉山田麻呂の3人は蘇我入鹿を殺害。蘇我蝦夷も自害して蘇我本家が滅び、大化の改新が始まります。皇極天皇(中大兄皇子の母)は、後はあなたがやりなさいと皇子に言うものの、中大兄皇子は聖徳太子と同様に、自分が直接皇位にあがるより、誰か他の人を天皇にして自分は執政者になりたいと考え、天皇の弟の軽皇子を天皇にしました(孝徳天皇)。

しかしその孝徳天皇が亡くなってしまったため、中大兄皇子としては再び母を皇位に呼び戻したのでした。

斉明天皇の時代は(実質)7年間続きますが、度重なる土木工事の失敗に加え有間皇子の謀殺事件、更には朝鮮半島の混乱に対する出兵準備などで、荒れた時代となりました。

斉明天皇自身、戦役の準備のため九州に赴きますが、結局、福岡の朝倉に設営した宮で亡くなってしまいました。この時、喪の様子を朝倉山の上から鬼が見ていたという記事が、日本書紀に記されています。

斉明天皇が亡くなったあと、皇子は天皇不在のまま朝鮮半島に出兵し、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗。日本は朝鮮半島の地盤を失うと共に九州まで侵略の危機にさらされることになります。

そして、結局は皇子自身が即位(天智天皇)するものの、都は万一の場合にそなえて東国に逃げやすい近江に設置する羽目になります。


(2008-01-03)

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