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早良親王逮捕(785)

延暦4年(785)9月24日、造築中の長岡京で、工事の責任者の藤原種継が何者かに射殺されました。そしてこの事件の黒幕として9月28日、皇太子早良親王が逮捕され、乙訓寺に幽閉されました。皇太子は無実を訴えてハンストを行い、そのまま餓死してしまいます。

奈良時代の末期、怪僧道鏡が孝謙天皇に取り入って天皇の地位まで狙ったことへの反省から、その孝謙天皇のあとを継いだ光仁天皇は乱れた政治体制の再建に力を尽くし、更にそのあとを継いだ桓武天皇は、都を仏教勢力の強い平城京から新都・長岡京へ移転させて、癒着を切る作戦に出ました。そしてその長岡京の造営には、天皇が深く信頼する藤原種継を当てたのです。

しかしそこにこの射殺事件が起きます。当然それをやったのは平城京から都が出ていくと困る守旧派のものと思われました。厳しい捜査が行われますが何と逮捕された実行犯は早良親王の配下の者でした。

桓武天皇は天智・天武・持統以来の名君でした。桓武は天皇の親政を理想としており、そのため、天智が弟の大海人皇子(天武)を使い、天武が妻のさらら皇女(持統)を使い、持統が義理の息子の高市皇子を使ったように、桓武は同母弟の早良親王を副官として使い、他の氏族に惑わされずに種々の政策を実施していました。

しかし副官というのは危険な存在で、天智の政策に反感を持つ者が天武の回りに集まったように、持統の政策に反感を持つ者が高市の回りに寄ってきたように、桓武の政策に反発する者、とくに平城京に慣れ親しんだ天武・持統系皇族やそれに近い氏族たちは、早良親王の近くに集まってきました。天武の時の藤原鎌足のような調整者がいたり、賢明な高市皇子のように一切の誘惑を拒否できる人であればよかったのでしょうが、早良親王の場合はそのあたりの防御が弱かったのかも知れません。

国家の大事業の責任者の殺害犯人を配下から出したとあっては、いくら天皇の実弟で国政の代行者であったといっても無事で済ませるわけにはいきませんでした。そしてこの日逮捕になります。桓武天皇も対応に苦慮したものと思われますが、その気持ちを慮ることなく早良は絶食という愚かな方法を取り死んでしまいます。桓武天皇は沈痛な気持ちであったでしょう。

この事件でつまづいた長岡京建設はさらにケチがつき続けます。怪異も続きます。そして桓武の妻たちや生母が相次いで病死、早良親王の死後代って皇太子になった安殿親王(後の平城天皇)も病気になります。諸国で天然痘が流行し、東国の紛争も膠着状態になっていました。長岡京の造営はなかなか進まず、そんな中延暦11年新京は2度にわたって水害に見舞われました。

ここで並の天皇なら長岡京への遷都を断念するところです。しかし桓武は違いました。彼は建築中の長岡京を放棄して新たに宇太村に別の都を作り、そこに遷都するという方針を打ち出しました。専制君主だからこそできる政策でした。

宇太村は桓武天皇の支援勢力のひとつである秦氏の勢力地でした。天皇はここが風光明媚な地であり、自らも知識を持っていたであろう風水理論に照らしても理想的な土地であることを見て取りました。ここに惚れ込んだ天皇は工事が始まるとすぐに、この新都に居を移し、ここを「平安京」と名付けました。今に至る1000年の都の歴史がここに始まりました。延暦13年(794)10月22日辛酉の日でした。そして3日後の甲子の日、宴を催してこの遷都を祝いました。

さて、この時代も色々な怨念のうずまく時期です。

    聖武天皇|井上内親王===光仁天皇======高野新笠|         |+−−+−+    +−−+−−−−−−−−−+|    |    |            |他戸皇子 酒人内親王==桓            |武            |吉子====天====藤原乙牟漏  早良親王|  皇   |伊予親王  +−+−−−+|     |平城天皇  嵯峨天皇

他戸皇子は光仁天皇の皇太子でしたが、藤原百川の陰謀で濡れ衣を着せられて、廃太子され母の井上内親王とともに幽閉の上、やがて殺害されます。早良親王については既に述べました。伊予親王は藤原仲成の陰謀でやはり母の吉子(是公の娘)とともに幽閉され、自殺しました。これらの恨みを抱いて死んでいった人たちは、後祟りをなすとして「御霊」と呼ばれて祭られます。特に早良親王に関しては崇道天皇のおくり名まで与えられました。


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