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崇峻天皇の暗殺(592)

崇峻天皇5年(592)11月3日、天皇が当代一の実力者・蘇我馬子に弑し奉られるという事件が起きました。

古来、暗殺されたと思われる天皇は何人かいますが、これほど明確に記録されているのは崇峻天皇が唯一の存在です。

崇峻天皇(泊瀬部天皇:はつせべのすめらみこと)は元々、蘇我と物部の勢力争いに乗じて即位した天皇です。

用明天皇(聖徳太子の父)が亡くなったあと、誰を次の天皇にするか、もめている最中に、最有力候補であり物部が推していた穴穂部皇子が蘇我の兵に殺害されてしまいます。

物部と蘇我は仏教を受け入れるかどうかについても対立していました。

古くからの伝統を持ち物部神道を擁する物部一族は当然排仏派。これに対して新興勢力で宗教的基盤のない蘇我は仏教を導入して、それを自分たちに都合のよい宗教勢力に育てようとしていました。そしてここにきて天皇後継者を巡る争い。

そこでこの穴穂部皇子殺害事件をきっかけに両者は武力衝突に至ります。このとき、敏達天皇妃の額田部皇女(後の推古天皇)・聖徳太子・泊瀬部皇子らが蘇我側に参加しました。

はじめ元々「もののふ」を支配する故に物部の名を持つ、軍事的経験の深い物部が優勢でしたが、やがて当時14歳の聖徳太子が急いで四天王の白木の像を彫り、それを掲げて先頭に立って進軍すると、蘇我側の志気は上がり、やがて物部の大将である物部守屋が、蘇我側の遠距離からの弓矢攻撃により射殺されますと、物部は総崩れになって、蘇我の圧勝に終わりました。

そしてこの戦争の勝利の結果、蘇我軍に参加した泊瀬部皇子が天皇に就任することになりました。(崇峻天皇)

天皇には蘇我馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)と、大伴糠手の娘の小手子(おてこ)が入内しますが、奇妙なことにどうも小手子の方が正妃的な立場にあったようです。天皇と小手子の間には皇子と皇女が一人ずつ生まれています。あるいは天皇になる前からの妻なのかも知れません。

また、蘇我勢力に支援されて天皇になったものの、蘇我馬子との関係は必ずしもよくなかったようです。そして4年後。

崇峻天皇5年10月4日、天皇に猪を奉る者がありました。すると天皇は「この猪の首を落とすように憎い奴の首を落としたいものだ」とおっしゃいました。

このことを、日本書紀では小手子が馬子に手紙で報せたと書いてあるのですが、大伴の娘がわざわざ蘇我にこんなことを報せる道理がありませんので、実際は河上娘が報せたのでしょう。

そして天皇はなぜか武器を集めさせはじめました。

こんな機会を馬子が逃す訳がありません。「天皇が自分を無実の罪で討とうとしている。だから自分は正当防衛で天皇を討つ」そういう「正当な理由」を馬子に与えてしまいました。

蘇我馬子は蘇我に忠実な東漢(やまとのあや)一族の直駒(あたいこま)という者を刺客として崇峻宮に送り込み、これを暗殺しました。ここで誤算だったのは、直駒は調子にのって後宮にいた美女を略奪してしまいます。ところが、これがなんと馬子の娘の河上娘でした。

そこで直駒は折角危険で重要な任務を果たしたのに馬子の命で殺害されてしまうことになります。もっとも天皇殺害犯ですから、こういうことがなくても、できれば何かの理由をつけて消しておきたかったかも知れません。

なお河上娘のその後の消息については日本書紀は何も語っていません。天皇の元妻では再婚できる相手も限られるので、あるいは尼にでもなったかも知れません。ただし、河上娘は後に聖徳太子の妃となった刀自古娘(とじこのいらつめ)と同一人物ではないかとの説もあります。確かに相手が事実上の天皇である聖徳太子なら再婚もノープロブレムです。

なお、崇峻天皇の皇子の蜂子皇子(はちすのみこ)は聖徳太子に助けられて都を脱出し、東北まで逃れて、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)を開いたといわれています。

崇峻天皇亡き後は、額田部皇女が数十年ぶりの女帝として即位し、聖徳太子を摂政とし、馬子を大臣として、トロイカ体制による政権が発足。やがて十七条憲法・冠位十二階が定められて、日本の法治政治の歴史が始まります。


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