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葛城王臣籍降下橘諸兄となる(736)

俗に『源平藤橘』といいます。源氏・平氏・藤原・橘をいい、皇族以外ではこの4家だけが摂政関白を出すことができるとされていました。そのため、庶民の身分から身を立てた豊臣秀吉も関白に任じられる前に藤原姓を一時期名乗っています。

源氏・平氏はいづれも天皇家を祖先とするもので、その出発点となっている天皇の名を取って、清和源氏・嵯峨源氏・桓武平氏・文徳平氏などなどと呼ばれます。藤原は天皇家とともに1200年以上日本を支えてきた家系で、大化改新の立役者・藤原鎌足(中臣鎌足)をその祖とします。

橘家は藤原家2代目の藤原不比等と密接な関連があります。

まず、敏達天皇と春日薬君娘の間の第一皇子・難波皇子の孫で、太宰師を務めた美努王と犬飼三千代が結婚して、葛城王が生まれまています。この三千代夫人は軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めていましたが、その三千代夫人に藤原不比等がプロポーズ。三千代は夫を捨て、不比等の元に走ります。これが697年頃のことです。そしてまもなく軽皇子が祖母・持統天皇の強力な後ろ盾により皇位につきました。ここから藤原1200年の栄華が始まります。

しかしこの文武天皇は707年わずか25歳でこの世を去ります。皇位は文武の母の元明天皇に受け継がれました。そして、翌年、三千代夫人に橘宿禰の姓が与えられました。

時が流れて724年。皇位は文武の遺児・聖武天皇に引き継がれました。天皇の母は、三千代夫人の力で文武天皇の妃となった、不比等の娘・宮子。藤原の時代の復活です。しかし733年に三千代死去。ここで736年11月17日三千代と美努王の間の子供葛城王が臣籍に降下。橘諸兄(もろえ)と称しました。ここから橘家が始まったのです。

橘諸兄は738年から743年まで右大臣、743年から757年まで左大臣を務めました。曾孫の橘逸勢(はやなり)は書家として有名で遣唐使なども務めました。その従妹の嘉智子は嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となり、その力によって皇后の弟・橘氏公は仁明天皇のもとで右大臣を務めています。

特に檀林皇后は、橘家の中興の祖ともいうべき人です。夫の嵯峨天皇とともに仏教をあつく保護し、唐僧の義空を招いて日本で最初の禅寺・檀林寺を創建しました。また学習院を創設。藤原家の勧学院・在原家の奨学院とならぶ、貴族の子弟の教育機関として重要な役割を果たしました。


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