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天武天皇即位(673.2.27)

673年2月27日天武天皇が飛鳥浄御原宮で即位の儀を執り行いました。

天武天皇は名を大海人皇子(おおあまのみこ)といい、舒明天皇と斉明(皇極)天皇の間の子です。兄が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ,天智天皇)で、大海人皇子は大化改新後の中大兄皇子の政権(孝徳・斉明・天智朝)の中で中臣(藤原)鎌足とともに重要な位置を占めていました。そして天智天皇が即位した後は皇太子となり、誰もが天皇が亡くなった後もこの弟であれば立派にその事業を継いで国を豊にしてくれるだろうと期待していました。

ところがここに面倒な問題が起きました。大友皇子の問題です。

大友皇子は天智天皇と伊賀釆女宅子娘の間の皇子です。天智天皇は皇后の他に四人の嬪がいましたが、これらの妻が産んだ子がことごとく女の子で唯一建皇子という人がいましたが、言葉が不自由でした。その他の後宮の女官の中に天皇の子供を産んだ人が4人いて、その産まれた子供の中に大友皇子・川島皇子・施基皇子(光仁天皇の父)という3人の男の子がいました。しかし、この3人は母親の身分が低いので本来天皇になるのは困難でした。

ところがその中でもこの大友皇子は優秀な子で、天智天皇は次第にこの子に情を感じるようになります。そしていつしか政権内で重要な地位を与えるようになり、ついに天智天皇10年(671)彼を太政大臣に任命しました。大海人皇子という皇太子がいるにも関わらず、No.2をもう一人作ってしまったわけで人々は「天皇は大友皇子に位を譲るつもりだ」と噂します。

そして天皇はこの年9月病気になりますが「自分はもうダメだ。お前に天皇の位を譲りたいので来て欲しい」と大海人皇子を病床に呼びました。

瞬間、大海人皇子は「殺される」と悟ります。今まで兄の手法をたくさん見てきています。蘇我入鹿に始まって古人皇子、倉山田麻呂、有馬皇子。彼は自分の邪魔になる人はどんなに身近な人物でも冷酷に殺害する男です。大海人皇子は「いいえ。天皇の位は大友皇子にお譲り下さい。私は天皇の病気平癒を願って出家します」と言い、その場で髪を剃ってしまいました。そして少数の供だけを連れて吉野に逃れます。少しでも行動が遅れたら天皇の放った刺客に狙われる、危険な逃避行でした。

そして天皇崩御。このあと大友皇子が践祚して天皇になったという説と、践祚はしていないという説がありますが、現代では決め手がありません。

しかし決戦は避けられないとみた大友皇子側が武器を集め始めますと、672年6月24日、大海人皇子は吉野を脱出、宇陀・室生・柘植・鈴鹿と山越えをしてほんの数日で支援者が期待できる東国の桑名にまで至りました。そして7月、両者は激突します。場所は関ヶ原。天下分け目の戦い。壬申の乱でした。そしてこの戦いに大海人皇子が勝って、大友皇子は自殺。

そしてその戦争の混乱が収まったのを見計らって673年(天武天皇2年と数える)2月27日、正式に即位して天皇となったものです。

天武天皇の治世はいわば聖徳太子が始めた日本の法的な政治体制の確立の最後の仕上げの時期になっています。

律令と歴史書の編纂を命じ、八色の姓と新しい位階を定め、身分に応じた服装の様式を規定し、また今まで曖昧であった各国の境の策定のための調査を行っています。また占星台を設けて天体観測をさせたり、また仏教・神道の双方を重視・奨励して両派勢力の融合を図ったりしています。

日本では聖徳太子の時代以降仏教勢力がどんどん力を付けていっているのですが、その中で天武天皇は伊勢神宮に祈願して壬申の乱に勝ったこともあり神道もかなり重視しています。実際伊勢神宮の色々な祭祀や制度は、この時代に始まったのではないかともいわれています。この天皇が出ていなかったら、ひょっとすると日本は完全に仏教国になっていたかも知れません。また天皇は道教などの中国文化にも詳しく「天皇」や「日本」といった漢語がそれまでの「おおきみ」や「やまと」に代わって使われるようになったのも、この時代ではないかと言われています。

律令は文武天皇の時代・大宝元年(701)に完成して「大宝律令」と呼ばれています。歴史書も元正天皇の時代・養老4年(720)に完成して「日本書紀」と呼ばれています。天武天皇は約15年間政務を執られたあと686年9月9日に崩御しますが、その遺志は持統天皇や藤原不比等らに受け継がれ日本の政治体制は確立していきます。

なお天武天皇の子供を下記に母親ごとにまとめておきます。

 皇后・鵜野讃良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)持統天皇(天智天皇と、倉山田麻呂の女・遠智娘の間の子)草壁皇子(文武天皇・元正天皇の父)

 妃・大田皇女 天智天皇の女 持統天皇の同母姉大来皇女大津皇子(天武天皇が亡くなった直後処刑される)

 妃・大江皇女 天智天皇の女(母は忍海造小竜の女・色夫古娘)長皇子・弓削皇子

 妃・新田部皇女 天智天皇の女(母は阿倍倉梯麻呂の女・橘娘)(阿倍倉梯麻呂は安倍晴明の先祖で、最初に阿倍姓を名乗った人)舎人皇子(日本書紀の最終編纂者)

 夫人・氷上娘 藤原鎌足の女但馬皇女

 夫人・五百重娘 藤原鎌足の女 氷上娘の妹新田部皇子

 夫人・大ぬ(蕤)娘 蘇我赤兄の女穂積皇子・紀皇女・田形皇女

 額田王(ぬかたのおおきみ) 鏡王の女十市皇女(大友皇子妃)

 尼子娘 胸形君徳善の女(この人は北部九州に伝説が多い)高市皇子(持統天皇の時代の太政大臣)

 穀媛娘 宍人臣大麻呂の女忍壁皇子・磯城皇子・泊瀬部皇女・託基皇女

さて、わざわざこれを羅列したのには2点に注目して頂きたかったからです。

ひとつはこの中に天智天皇の娘が4人もいるということです。天智天皇と天武天皇は同母同父の兄弟であり、その濃い血のつながりのある弟に天智天皇が自分の娘を4人も嫁がせているというのは、かなり異常と思えます。そのことをもって、本当は天武天皇は天智天皇の弟ではないのではないかという説を唱える人もいるくらいです。

もうひとつは額田王です。万葉集に12首を残す歌人ですが彼女は十市皇女を産んだあと、兄の天智天皇に乗り換えてしまいました。そして天智天皇の妻となった後、宴の席(蒲生野への遊猟)でこんなとんでもない歌を詠んでいます。

 あかねさす紫野行き標野行き、野守は見ずや、君が袖振る

恐らくは元夫である大海人皇子とチラっと目があったりして、大海人皇子も前の妻ですから、ちょっと片手をあげて軽く挨拶するくらいの動作をしたのでしょう。ところが天真爛漫な彼女は、それをネタに「あら、そんなことして、誰かに見られたら私たちの関係を疑われるではないですか?」などと詠んでしまったわけです。

これに対して肝がすわっている大海人皇子はこう返歌します。

 紫の匂へる妹を憎くあらば、人妻故に吾恋ひめやも

堂々と「他人の奥さんになった今でも愛してるよ」と言っています。(万葉集1巻20,21)

恐らく群臣は、どう反応していいか困ってしまったでしょうが、中臣鎌足あたりが何か気の利いたことをいって、うまく取り繕ったのでしょう。案外天智天皇はニヤニヤ笑っていたかも知れません。女を勝ち取った側の余裕です。そして多分そうされるほどに大海人皇子にとっては屈辱であったかも知れません。自分も一所懸命この国のために尽くしているのに権力は全て兄の元にある。自分の妻も奪われ、更には皇太子の座まで奪われかけている。

この額田王をめぐる愛憎関係が壬申の乱の原因のひとつではないか、と主張する人もいるくらいです。

なお、天武天皇と額田王の間に産まれた十市皇女は、よりによって大友皇子に嫁ぎました。彼女にとっては大友皇子は従兄でもありますが母の再婚相手の子ですから義理の兄でもあり、壬申の乱は、その兄であり夫である人と実の父との戦争でした。彼女はその心労のため若死にしています。

なお、その母の額田王のほうは長生きしています。額田王は修羅の道を選択した持統天皇とは別の意味で神経が太かったのでしょう。


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