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用明天皇即位(585)

585年9月5日、聖徳太子の父にあたる用明天皇が即位しました。

大和朝廷が日本の大部分に関して安定した支配権を確立したのは、継体天皇とその子の欽明天皇の時代と考えられます。その後は欽明天皇の子の敏達天皇が立って、神道勢力と新興の仏教勢力の争いや、また隣の朝鮮半島での争いなどはあったものの、比較的平和な時代が続いていました。その敏達天皇が亡くなった後、まだ子供の彦人皇子は若かったため敏達天皇の弟の橘豊日大兄皇子つまり用明天皇が後をついだものと思われます。そして彦人皇子が皇太子になったようです。(明確には書かれてないが日本書紀の用明紀に1ヶ所だけ彦人皇子のことを太子と書いた箇所がある)

しかしこの用明天皇は即位してわずか1年半で疱瘡に罹り亡くなってしまいます。そしてその後継を巡って物部一族と蘇我一族の全面戦争が勃発、これを制した蘇我が崇峻天皇を立てますが、従順ではなかったため更にこれを暗殺して蘇我一族の栄光の時代である推古天皇の御代がやってきます。この約8年間のことを書いたのが山岸涼子さんの「日出処の天子」です。

     蘇我稲目                 継体天皇|                    |+−−+−−+               +−+−−+|     |               |    ||   小姉君===============欽    ||        |   蘇我稲目     明   宣化天皇蘇我馬子      |    |       天    ||        |   堅塩姫======皇====石姫|        |        |     |+−+−+   +−−+−−+  +−−+−−+  || | |   |  |  |  |  |  |  || |河上  崇峻 穴穂部 間人 用明 桜井 推古 敏達| | 娘==天皇 皇子  皇女=天皇 皇子 天皇=天皇====広姫| |             |   |    |    ||刀自古==========聖徳太子  |   貝鮹姫  彦人皇子|        |          |(聖徳太子妃)  |蘇我毛人    山背皇子        |      +−−+−+|                 吉備姫王===茅渟王    |蘇我入鹿                  |         |+−−−−−+−+       ||       |       |孝徳天皇   斉明天皇=====舒明天皇|天智天皇・天武天皇

敏達天皇が亡くなった時、後継者としては豊日皇子と穴穂部皇子が候補としてのぼったものと思われます。どちらも蘇我の血を引く皇子であり、蘇我馬子にとっては甥にあたります。それが豊日皇子の方に決まった理由はよく分かりませんが、剛胆で強力な大王となりそうな穴穂部よりもよりも制御しやすそうな豊日の方を群臣が立てたのかも知れません。

この用明天皇の即位というのは色々なパワーバランスを変える大きなエポックでした。これにより純皇族の皇子である彦人皇子は、一応皇太子になったとはいえバックにつくのは三輪逆くらいで、本当に次の天皇になることができるか微妙な立場に立つことになりました。そしてまだ12歳とはいえ、早熟で明晰な皇子として評判のよい厩戸皇子(聖徳太子)が次期天皇の最有力候補として浮上することになります。もし何の争乱もないまま用明天皇が長生きしていたら、その後継をめぐって彦人皇子をかつぐ勢力と厩戸皇子をかつぐ勢力との間で争いが起きていたかも知れません。

結果的に、額田部姫(推古天皇)の子供の竹田皇子(当時10歳くらいか)や、大王の地位に執念を燃やす穴穂部皇子の皇位への道は相当遠くなったと言わざるを得ません。一方蘇我馬子にとっては初めての蘇我の血を引く天皇の誕生であり、その長男の厩戸皇子は母も蘇我の姫であり、次に彦人皇子を退けて無事この皇子に皇位を継承させれば蘇我一族は安泰と思われ、満面の笑みを浮かべていたことでしょう。逆に蘇我と対立する物部一族としてはこれ以上蘇我の力が大きくなることは耐えられない思いであったものと思われます。

そこでこの後、色々な動きが出てきます。586年まず短気な穴穂部皇子は利害関係が一致すると思われた額田部姫に接近、親密な関係になろうとしますが、三輪逆にはばまれて未遂に終わります。これを恨んだ穴穂部は今度は物部守屋と結んで三輪逆を殺してしまいます。これで彼がほぼ唯一の味方であった彦人皇太子には次期天皇の芽がなくなりました。三輪逆を倒すことは当然蘇我馬子にとっても非常にメリットがあることでしたので馬子もこれに関与した可能性が高いと思います。この辺り、日本書紀は馬子は穴穂部皇子をとめようとしたが皇子が聞き入れなかったと書いています。「日出処の天子」は馬子はこれに荷担しようとしたが厩戸皇子に止められて仮病を使い兵を出さずに見殺しにしたとしています。こらちの方が本当に近い気がします。

さてこの事件を契機に穴穂部皇子が物部と近い関係になったことで、次期天皇をめぐる争いとしては、厩戸を担ぎ出したい蘇我馬子と、盟友となった穴穂部を立てて政治の実権を回復したい物部守屋との間の対立という構図になってきます。ところが不幸なことにその用明天皇があまりにもはやく死にすぎました。

この時厩戸皇子はまだ14歳。いくら早熟な人とはいえ年齢的に天皇になるには余りにも若すぎました。当然その後は穴穂部皇子に決まりとなるところです。しかしそれでは蘇我馬子は困ります。また可能性は低かったとはいえ竹田皇子を天皇にしたい額田部姫としても穴穂部のような強力な大王の出現は必ずしも喜ぶべきことではありませんでした。そこで両者は結んで兵を出し、穴穂部皇子の宮を襲撃、皇子を暗殺してしまいました。

そして両者は更にこれに乗じて物部一族を倒そうと考え、大軍を率いて守屋の本拠地を攻めます。その際大義名分も必要なので、穴穂部皇子の弟で御しやすいと思われた伯瀬部皇子を次期天皇候補として立て、その反対勢力を取り除くのだということにしたのです。この戦争は蘇我馬子・額田部姫・伯瀬部皇子の連合軍が勝って伯瀬部皇子が用明天皇の次の天皇に就任します。崇峻天皇です。

ところで「日出処の天子」はこの戦いで竹田皇子が命を落としたという説を取っています。実は竹田皇子がいつ亡くなったのかは記録がないのです。推古天皇が亡くなった時に「自分の遺体は竹田皇子の陵に合葬して欲しい」と遺言していますから、それまでには亡くなっていたことになりますが、いつ死んだのか分かりません。しかし、竹田皇子の名前が出てくるのは確かに蘇我・物部の戦争の時が最後ですので、この時に亡くなった可能性はないことはないでしょう。もしこの時に本当に竹田皇子が亡くなったのだとしたら、額田部姫(推古天皇)が自分の娘の貝鮹姫(「日出処の天子」では大姫と書かれています)と孫の橘女王を聖徳太子に嫁がせ、その子供に期待を掛けたのも納得できるような気がします。残念ながらそれも実現しませんでしたが。

崇峻天皇は蘇我馬子の娘の河上娘と、物部が滅んだことで再浮上した古代豪族である大伴一族の娘小手子を妃とします。しかしやがて崇峻天皇は馬子と対立。これを除こうとしたため、先手を打った馬子にまたまた暗殺されてしまいます。

この時厩戸皇子は19歳。もう立派な青年ですし当然彼が皇位をつぐものと思われましたが、大方の予想に反して額田部姫が天皇に就任することになります。この推古天皇の誕生に関しては古来色々な説が説かれているわけですが「日出処の天子」がいうように、厩戸皇子は自らが政治の実権を握るためには下手に天皇となるより皇太子の立場で天皇をコントロールした方が得策と考えたのではないかという説は説得力があると思います。それは実に50年後に中大兄皇子(天智天皇)が取ったのと同じ手法でした。

そしてまさに推古天皇の時代は天皇と厩戸皇子(聖徳太子)・蘇我馬子の三者によるトロイカ体制で政治が行われていくのです。これは50年後の孝徳天皇・斉明天皇の時代に天皇と中大兄皇子・中臣鎌足の三者のトロイカ体制で政治が行われていったのと非常によく似ています。中大兄が蘇我入鹿を斬って実権を掌握したのも20歳の時。厩戸皇子と同じような年齢でした。そして鎌足の子孫である藤原一族は蘇我一族がやったのと同じように積極的に天皇家と姻戚関係を結び、それを支えにして権力の中枢に立ち続けます。

そういった意味でも日本の国家の構造を作ったのは聖徳太子であったと言えるのでしょう。これ以降、天皇という地位のまま政治的トップに立った天皇というのは数えるくらいしかいません。天智天皇(晩年)・天武天皇・持統天皇・桓武天皇・嵯峨天皇・宇多天皇・後醍醐天皇(一時)くらいでしょうか。


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