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大海人皇子吉野へ(671.10.19)

『春過ぎて夏来にけらし白妙の衣乾すてふ天の香具山』

百人一首にも採られている持統天皇の御製の歌です。「てふ」は「という」の意味です。

香具山は一般に畝傍山・耳成山と合わせて、大和三山と言われます。一般に○○三山と言われる場合は、その山はくっついていたり、一列に並んでいたりするのですが、この三山はある程度の距離を置いて、やや正三角形に近い形を形成しています。そしてその三角形の中心にあるのが、持統天皇の作った都・藤原京です。

持統天皇の父は天智天皇。夫は天智天皇の実弟の天武天皇。この時代はこういう近親結婚が非常に多い。持統天皇の異母妹(といっても母同志が姉妹)の元明天皇は、天武天皇と持統天皇の間の皇子・草壁皇子に嫁いで元正天皇・文武天皇の姉弟を産んでいます。

この持統天皇は吉野の山に何度も何度も行幸したことで知られています。それはこの場所が天皇にとって、非常に思い出深い場所であるからでしょう。

持統天皇の旦那様の天武天皇もこんな御製を残しています。

『良き人の良しと良く見て良しといいし吉野良く見よ良き人良く見つ』

松尾芭蕉の『松島やああ松島や松島や』並みのとんでもない作品ですが、興としては面白いものでしょう。こういうふざけた歌をのこしたくなるほど、吉野は天武天皇にとっても思い出深い場所であったのでしょう。

今しばし持統天皇の時代から20年ほど前に遡ります。

大化改新をなしとげて26年間権力の座にあった天智天皇も病床にあり、その後継者が誰になるのか人々は様々な憶測をしていました。

はじめ、後継者は天智天皇とともに改新政府を動かしてきた実弟の大海人皇子(後の天武天皇)以外にはないと見られており、実際大海人皇子が皇太子の地位にありました。が、天智天皇の子供の大友皇子が大きくなってくると、天皇は息子に位を譲るのではないかと噂する人々が出てきます。

この噂にいらいらする大海人皇子。何年も一緒に仕事をしてきただけに天智天皇のやり方は分かっています。自分の計画に邪魔な者がいればそれが誰であろうと抹消するのが彼の流儀です。天智天皇の義父(蘇我石川麻呂)も甥(有馬皇子)もその犠牲になって殺害されています。しかし皇子たちとともに改新政府を動かしてきたもう一人の人物・中臣鎌足(藤原鎌足)が生きている間はそういう不安はすぐ打ち消すことができました。鎌足は天智の後継者が必ず大海人であることを保証してくれるはずでした。

しかしその鎌足が亡くなってしまいます。そして大友皇子が本来なら皇太子の職責である太政大臣に任命されました。

やはり、天皇は息子に位を譲る気だ。

誰もがそう確信します。しかし大友皇子の母は低い身分の出。天皇を母に持つ大海人皇子が存在している限り、そういう譲位をすることには無理があります。となれば大友皇子を皇位につけるためには。。。。

誰もが波乱の予感を抱きました。そんな中、天智天皇は突然「大海人皇子に皇位を譲りたいので、自分の部屋に来て欲しい」と伝言を寄こしました。

『やられる』大海人皇子は直感します。

そこで大海人皇子は「いえ、天皇の地位は大友皇子にお譲りください。私は天皇の病気回復を祈るために出家致します」と言って、その場で髪を落とし、宮中を出て吉野の里に向かいました。

時に671年10月19日。

人々は「虎を野に放つようなものだ」と噂します。そして大海人皇子を慕う者たちが大勢、吉野についていきました。

しかし大海人皇子は「私は出家したのだ。政治的な野心はない。ここにいたら出世できなくなるぞ」と2度にわたって宣言。みんなを帰してしまいます。後に残ったのは妻のさらら姫(後の持統天皇)などわずかの伴だけでした。

そして天智天皇が亡くなったのは12月3日のことでした。


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