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壬申の乱終結(672.7.23)

天智天皇11年(672年)7月23日、壬申の乱に敗れた大友皇子は山前でほんの2〜3人の付人とともに自害して果てました。

乙巳の変(大化改新)の共同実行者である中臣(藤原)鎌足と、弟であり皇太子である大海人皇子の3人で政治を進めてきた天智天皇も、自分の年齢のことを考え後継者のことを考えると、弟の大海人は当然尊重せざるを得ないとしても、自分の息子の大友皇子も可愛くて仕方がありませんでした。

やがて中臣鎌足が老齢のため死去すると、天皇は大友皇子を太政大臣にします。宮中では、天皇はやはり大友皇子を後継者に考えているのではないか、という噂が公然とささやかれるようになりました。その気配は以前からあったものの鎌足が生きていれば、天皇の後継者は大海人以外にはありえなかったことで、憤懣やるかたない大海人はある時は、宮中の宴会で興奮して槍を床に突き立て、回りの者にたしなめられる、という一幕もありました。

やがて天皇は病床につきます。そして弟の大海人に話したいことがあるから来るようにと言いますが、大海人は今まで兄が何人もの政敵を殺害してきたのを見ています。身の危険を感じた彼はそれには応じず、「私は天皇の病気の平癒を願って出家します」と言い、その場で頭をまるめて、吉野の里に隠居してしまいました。

しかし宮中の者にしても豪族たちにしても、大友皇子より大海人皇子を慕う人の方がずっと多数でした。大海人皇子がやがて再起するのではないかと考えて大勢の人が吉野に従ってきます。しかしその中には当然天智天皇の極秘の指令を受けて隙を見て大海人皇子を暗殺しようとする者も含まれていると考えられました。皇子はその危険を排除するため、2度にわたって「自分は引退したのだ。都に戻るつもりはない。仕事を失いたくないものは都に帰りなさい」と言い、回りを絶対に信用できる者だけに減らしてしまいます。

やがて天智天皇が亡くなり、大友皇子があとをついで即位します。(弘文天皇,即位していないという説もある) しかしあとはついだものの、やはり叔父であり義父でもある吉野の大海人皇子の存在は不気味でした。(大友皇子の妃は大海人皇子と額田王(ぬかたのおおきみ)との間の娘。ただし額田王は天智天皇に嫁ぎなおしているから、従妹であり義妹でもある)そんな中、大友皇子は父天智天皇の墓を作ると称して人夫を多数集めますが、その人夫に武器を持たせました。なぜ大友皇子が武器を持たせたのかの真意は不明ですが、大海人皇子はただちに反応しました。こちらに軍を差し向けられるというのであれば先手を打ってこちらから挙兵すべきであろう。

(そういう状況下でなく挙兵すれば逆賊になりますが、天皇側が攻めようと しているのなら正当防衛になります。大海人はこのタイミングを待ってい たのでしょう。80年前の蘇我馬子による崇峻天皇殺害も同様のタイミング を使っています。逆賊では戦争に勝っても人々の支持が得られません。)

当時大海人皇子の回りに残っていたのは、妃のさらら姫(天智天皇の娘,後の持統天皇)ほか、ほんとにわずかな人数でした。一行は武器と兵士をそろえることのできる見込みのある東国へ行くため、伊賀の山を越えていきます。あちこちに散っていた大海人皇子の息子たちや協力する豪族達が合流してきます。2日後の朝には海岸にたどりつき伊勢神宮の方に向って参拝、武運を祈ります。そして大海人皇子の兵は関ヶ原に大集結して、大友皇子のいる大津の都へ進軍しました。(つまり関ヶ原は徳川家康の900年前にも天下分け目の決戦の舞台になっていました)

迅速な行動をとった大海人皇子に対して、大友皇子も天皇の名前にかけて兵を集め、両者ほぼ互角の戦力で7月初旬、相対します。だいたい双方とも3万人ほどの大兵力であったとされます。(当時の日本の人口は600万人程度)この時大海人皇子は敵味方を区別するため、味方の兵士に赤い布をつけさせました。また大友皇子側は「金」という合言葉を決めたといわれます。

(ここで大海人皇子が赤、五行では火、大友皇子は金になっています。大海 人皇子の進軍はわざわざ関ヶ原に行ってから大津の都を攻めましたので、 東から南へ、つまり木生火の方角。そして大友皇子が「金」なら火剋金で 勝てます。ですから、この「金」という言葉はできすぎているので、後か ら付けた話かも知れません)

さすがに大兵力ですので、簡単には勝負は付かず、戦況は一進一退を繰り返しました。7日横河では大海人側が勝ちますが大和では大友側が勝ちます。しかし13日に安河で大海人側が大勝したのが効き、22日事実上の最終決戦となった瀬田の戦いでは大分君稚臣の捨て身の攻撃もあって大友軍の本体が総崩れになります。

大友側の将軍智尊は軍勢を建て直そうと、逃げようとする兵士を斬ったりもしますが効果はなく智尊自身が斬られてしまいます。負けを悟った大友皇子は、わずか数人の供の者とともに23日、山前まで逃れます。しかし行く手も阻まれて、もう逃げ道がないと知り、そこで自害しました。物部連麻呂と1〜2人の回りの者だけが皇子と一緒に果てました。

残党狩りも24日頃には終わり、26日大海人皇子の軍は大友皇子の首をかかげて関ヶ原に凱旋、翌月には大友皇子側の群臣を処分(8名死罪)、功績あったものの恩賞も行ない、9月飛鳥に戻って、ここに新しい宮を設置します。そして翌年2月即位して天皇(天武天皇)となります。


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