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秀吉毛利と和平(1582)

まず系図を書いておきましょう。

  毛利元就−+−毛利隆元−−毛利輝元+−吉川元春+−小早川隆景=(養子)=小早川秀秋(豊臣ねねの甥)

隆元・元春・隆景が「三本の矢」です。元就は毛利家が毛利本家・吉川・小早川の三家体制で永続していくようにとの願いから「1本ずつの矢なら折れても3本の矢は折れない」といって後々まで兄弟3人で協力していくようにとの教訓状を出し、三人は父の意向に従う旨連署の請文を出しています。

さて中国平定のための活動をしていた羽柴秀吉は「鳥取の渇泣かし」と呼ばれる過酷な兵糧責めで鳥取の吉川経常を倒した後、小早川隆景の部下・清水宗治のいる備中高松城を今度は水攻めにしていました。小早川隆景は吉川元春とともに援軍に駆けつけますが近寄ることができず毛利側は和議に転じます。交渉には安国寺の恵瓊が立ち秀吉側と条件面の詰めをしていましたがなかなか同意に達することができませんでした。

そんな中6月3日夜秀吉の軍が怪しい農民風の男を捕らえます。男は実は明智光秀から毛利への密使でした。男が持っていた密書にはこのようなことが書かれており、それにより秀吉はいち早く変事を知りました。

 ・今秀吉がそちらで乱暴を働いており、毛利家にかくまわれている将軍足利義昭殿もお怒りの上、今毛利家でも秀吉と対陣なさっているのでしょう。

 ・私も長年の憤りもあり京都で2日信長親子を誅しました。将軍殿もぜひお喜びになることと思いますが、今後もよろしくお願いしたい。

秀吉はただちに密使を斬り、このことについて箝口令を敷きます。そして翌日朝、交渉にやってきた恵瓊に条件を緩めてもよいと伝えました。高松城を守る清水宗治一人が腹を切ればこの場は和議して兵を引くというのです。そして彼はこう付け加えます。「毛利殿も清水殿を見殺しにするのはしのびなかろう。ここは貴僧おひとりで清水殿と話しあわれては如何」これは本音であると同時に毛利兄弟にこの話をしたら突然この程度の条件で秀吉が和議を結ぶことにしたことに嫌疑をはさむのではないかという配慮もありました。

恵瓊は単身高松城に入り清水宗治と折衝、宗治は同意して自分が切腹したら城の中の者は全員助けて欲しいと秀吉に乞い、これを秀吉は了承。宗治は水攻めの水の上に浮かべた船の上で、秀吉の検使の目前で切腹しました。この時宗治だけを死なせるのはしのびないと彼の兄と二人の部下も宗治に殉じています。その切腹を見てからただちに秀吉は恵瓊を仲立ちとして正式に毛利と和議の誓紙を交換します。宗治の死を目にして毛利兄弟も秀吉との和議に異存を唱える訳にはいきませんでした。

和議が成立すると同時に秀吉は慌ただしく陣を整え、京都へとって返します。その直後、6月4日午後4時頃、毛利方にやっと本能寺の変の知らせが届きました。吉川元春は秀吉にまんまと欺かれたと知って怒り、ただちに秀吉を追撃する準備を始めます。しかしここで小早川隆景は、駆け引きは戦いの常であり結んだ和議は和議、遵守すべきだと主張します。そして三本の矢の起請文のことから説きおこして、こういう時そこ兄弟団結すべきであると兄を説得しました。こうして秀吉は背後の心配をせずにただちに引き返すことができました。

このあとのことはまた数日後に。


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