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平手政秀の切腹(1553)

天文22年(1553)閏1月13日、尾張の織田家の家臣・平手政秀が若殿信長(20)を諫めるために切腹をしました。

この話は一般に、織田家を継ぐべき信長があまりの放蕩者であったため、政秀が何度も諫めるも聞かず、父・信秀が天文20年に亡くなった時も馬に乗って葬儀場に飛び込み、灰を撒き散らすなどの狼藉を働いたりしていたため、最後の手段として陰腹を切り、さすがの信長もそれ以降行いを改めた....ということになっているのですが、話はそう単純ではありません。

当時尾張はそれがそのまま戦国の象徴であるかのように混沌としていました。織田家にしても基本的に織田大和守達勝と織田伊勢守信安が拮抗していたのですが、ここで達勝の家臣の織田信秀が主君と争って新興勢力として名を上げてきました。

信秀の子・信長は天文3年の生まれで、信秀は彼を那古屋城に置き、自分の後継者としてかなり厳しい教育を施したようです。とはいっても尾張地区における彼の地位は信秀が一代で築いたものである故に不安定で、反抗勢力はいくらでもいましたし、特にその信秀が死んだ後は、信秀には従っていたがその息子までは知るかという者もかなり多かったようです。信長が放蕩であろうとなかろうと、離反する者は大勢いましたし、当然彼を悪く言うものも大勢いました。

その中で信長は父がまだ生きていた(*1)天文18年に藤原姓を名乗っており、この時点で既に尾張どころか天下の統一を見据えていた可能性があります。そして政秀の切腹の前年天文21年(1552)に清須の坂井大膳を攻めたのを皮切りに、天文22年には織田信友を倒し、その後、兄の信広・弟の信行を討ち、度々彼の対抗馬に持ち上げられた弟・信勝も切腹させ、最後は岩倉の織田伊勢守信安らも追放して永禄2年(1559)尾張の統一を成し遂げています。(*2)

つまり政秀の切腹というのは、信長がこの尾張統一に着手してまもない頃に行われたものであり「素行を諫めて切腹」というのは、どうも当たっていないようにも思われます。

信長の家臣団が時を経るにつれ大きく変わっていったことは良く知られています。彼は実力主義で人を登用をしているため、足軽あがりの羽柴秀吉や、京都から連れてきた明智光秀などを重用する一方で、父以来の家臣でも自分に従わないものはどんどん外して行っています。

政秀は信秀の名代として朝廷との連絡役になったりもしている重臣で、いわば父のお気に入りの家臣。この切腹の時に政秀は何かを信長に申し入れたものの信長がそれを拒否したため、政秀は切腹したとも伝えられており、この事件というのは、或いは尾張・そして日本統一に向けての戦略に関する意見の相違によるものだった可能性もあります。

------------------------------------------------------------------(*1)信秀は天文18年没の説もある。その場合天文20年は父の葬儀ではなく 3回忌だったのかも知れない。(*2)この付近の、いつ誰を倒したのかについては資料が交錯している。再度資料の検討が必要かも知れない。


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