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本能寺の変(1582)

天正10年(1582)6月2日早朝、本能寺の変が起き、織田信長は天下統一の志半ばにして倒れました。

長篠の戦に破れた武田勝頼はその後甲斐に戻り体制を整え直そうとしますが、父信玄ほどのカリスマのない彼の元を去る武将も多く国内はガタガタになっていきます。この年の正月にはとうとう姉婿の穴山梅雪が徳川家康のもとに走り2月には徳川と固い同盟関係にある織田信長の軍も信州に侵入してきました。勝頼は郡内に移ろうとしますがこの時彼に従ったのは女性や子供まで入れてもわずか300人であったと伝えられます。しかし目指す郡内へは結局またまた離反により入れず、栖雲寺の近くで敵勢に囲まれる中自刃して果てました。これを栖雲寺の山号をとって天目山の合戦といいます。これにより武田家はあっけなく滅亡し、その所領の大半が徳川家康に帰しました。

この戦勝の祝いと協力へのお礼を兼ねて、家康は5月15日、その穴山梅雪をともなって安土城に信長に会いに来ます。信長は各地に部下を派遣して厳しい戦闘をやっている最中でしたので祝いの気分ではありませんでしたが、徳川は織田にとって重要な同盟相手、仕方なく取り敢えず手の空いていた明智光秀に家康たちの饗応を命じました。

信長はこの時非常にイライラしていたといいます。数日後家康と一緒に踊りを見に行った時にも突然怒りだして舞手をどなりつけたというエピソードも伝えられていますが、恐らく16日には光秀の館に家康を訪問した信長が魚が傷んでいるといって怒り、光秀に饗応役の御免を申しつけるという一幕もあったとのことです。

そんな中備中で毛利勢と対決していた羽柴秀吉から救援の軍を乞う書状が届きます。信長は毛利と勝負をつける時が来たと直観、今お役御免を申し渡したばかりの光秀を呼びつけ、自ら備中へ向かうことを告げその先鋒を務めるよう申し渡しました。光秀はただちに準備に取りかかりますが胸中複雑な思いが満ちていました。

21日には信長は家康と梅雪を京都・大阪などへの遊覧に向かわせ、29日には蒲生賢秀・津田信益らに安土城を託して自らも京都に向かい本能寺に宿しました。このとき信長自身の護衛兵はわずか数十人でした。

6月1日信長は公家衆とお茶会をし、夜には長男の織田信忠と京都所司代の村井貞勝が訪れ楽しく歓談して過ごします。信忠は妙覚寺に宿を取り、村井は本能寺の門前の自分の館に引きこもりました。

一方の明智光秀は部下に遠征の準備を命じつつ26日には居城の亀山城に入り、ひとり思案にふけっていました。そして27日には愛宕山にのぼり何度も何度もおみくじをひいたと伝えられます。翌28日には愛宕山西の坊で連歌を催します。光秀がよんだ歌は『ときは今あめが下知る五月哉』この時光秀の決意は固まりました。

光秀率いる毛利遠征軍は6月1日夕方亀山城を出発しました。その出発の少し前光秀は『京都の森蘭丸殿より使いがあって出陣の様子を信長殿にお目にかけるようにと言われた』と家臣に告げます。そこで一行は何の疑問もなく中国方面ではなく京都へ向かって進軍をはじめました。

そして進軍を始めるとまもなく斎藤利三(後に徳川家光の乳母となる春日局の父)ら5人の側近を集め、はじめて信長を討つつもりであることを打ち明け、みんながついてこない場合は自分ひとりで本能寺に討ち入って果てると告げました。側近たちは光秀についていくことにします。

桂川まで来た時光秀は全軍に武装を整えさせます。そして光秀は「兵糧を使い物具を固めよ。わが敵は中国に無し。京都四条の本能寺にあり。急ぎ攻め討て」と下知し、斎藤利三が「(光秀殿が)今日よりして天下様に御成りなされ候間、下々草履取以下に至るまで、勇み悦び候え」と告げました。(『川角太閤記』)

信長は早朝、騒がしい外の音に起こされます。最初は誰かが喧嘩をしているのかとおもったのですが、やがて鉄砲の音が聞こえてきたので「これは謀反か、いかなる者の企てぞ」と言いますと、そこへ信長の近習・森蘭丸が来て「明智が者と見え申し候」と答えました。信長は「是非に及ばず」と答えると自分も武器をとって戦い始めます(『信長公記』)

しかし明智の軍勢は1万5000人、信長を守っていた兵はわずか160名。勝負はあっけなくついてしまいます。信長は弓・槍・なぎなたなどで戦いましたが、もはやこれまでと見ると部屋にこもって自刃して果てました。その頃にはもう既に森蘭丸以下の護衛の兵たちもことごとく討ち死にしていました。これが本能寺の変で、これから明智光秀の10日天下が始まります。

この騒ぎに最初に気が付いたのは当然本能寺の門前の館にいた村井貞勝でした。しかし彼も信長と同様最初は誰かの喧嘩かと思っていたため対応が遅れました。気が付いた時にはもうなすすべもなく、やむを得ず彼は妙覚寺の織田信忠の所へ走り急を告げます。そして二条城にこもって共に光秀の軍を迎え撃ちますが、両者の手勢や急を聞いて京都市内から駆けつけた兵を合わせても1500人程度。よく奮戦しましたが光秀の大軍の前にはかなわず、結局村井は討ち死、信忠も城に火をつけて自刃しました。

徳川家康と穴山梅雪はこの時堺に遊覧中でしたが、信長が京都に来たという知らせを聞き、挨拶に向かおうとしていて、路上で偶然三河出身で家康と旧知の茶屋に会い本能寺の変を知りました。当時信長に心酔していた家康はショックを受け、自分も本能寺に行って信長公の死んだ跡地で腹を切って後を追うなどと言い出しますが側近の本田忠勝に止められ、弔い合戦をしましょう、その為に陣容を整えるのに急ぎ三河に戻りましょうと勧められます。

家康は本田忠勝・酒井忠次らその場にいたほんの数名とともに伊賀を越えて三河への道を急ぎました。この時は土地の山賊に襲われたりとかなり危険な行程でしたが途中から伊賀忍者の柘植三之丞(服部半蔵だったとの説もあり)らが駆けつけて守護につき、なんとか無事三河まで行くことができました。しかし同行していた穴山梅雪は家康の行動に疑問を持ち行動を共にせず、やや遅れて伊賀越えをしますが途中で農民に襲われて殺されてしまいました。家康が三河で弔い合戦の準備を始めたのは6月5日でした。

柴田勝家は前田利家らとともに北陸で上杉と戦っていました。6月3日には魚津城を落として戦いが一段落し4日変事を知りますが、京都に引き返すには敵軍の追撃を受ける恐れがあり、すぐには行動に移れませんでした。

信長の三男神戸信孝と丹羽長秀は四国討伐に行くため大阪城にいました。しかし父信長と兄信忠が討たれたのを聞いて信孝の部下が大量に脱走してしまい、長秀は自分の兵で信孝を守護します。そして同じ大阪城にいて光秀と通じているのではないかと疑った光秀の女婿津田信澄(信長の甥だがその父は信長に殺された)を討ちました。そんなことをしている内に時間がたってしまいました。

そして今一人の信長の重臣、滝川一益は上野厩橋にいましたが、その地を治めるよう命じられて赴任してきたばかりで、大きな兵を動かすことができませんでした。

そして結局光秀に対してすぐに行動を起こすことができたのは羽柴秀吉だけでした。この先の話は数日後にまた書きます。


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