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松平家康が徳川姓を許される(1566)

永禄9年(1566)12月29日、朝廷は松平家康に徳川の姓を名乗ることを許可しました。

時は桶狭間の戦いで織田信長が初めて天下統一の競争に名乗りをあげてから6年。まだ武田信玄も健在で、室町幕府も名ばかりとはいえ存続している時代です。家康の長男の信康もまだ7つ。

この年、家康はようやく三河の国の統一に成功。これにより家康は朝廷に、自分を三河守に任命してくれるよう申請しました。

正親町天皇(おおぎまちてんのう)はそのような官職は由緒ある家柄の者にしか与えられないといったん拒否しますが、家康は自分は清和源氏の子孫であると主張。系図を添えて再度申請。関白近衛晴嗣らにも積極的に働きかけて、その認可を勝ち取り、あわせて先祖の姓である「得川」の字を改めて「徳川」と名乗ることにしました。

その家康が添付した系図によると、徳川家の先祖は次のようになっています。

八幡太郎・源義家の孫に新田義重という人がいます。これは建武の中興の時に活躍した新田義貞の先祖にあたる人です。この新田義重の息子に義季という人がいて、この人が群馬県の得川に住んで初めて「得川」を名乗りました。

この得川義季から8代目に当たる人が得川有親といいますが、この人がちょうど新田義貞と同時代の人で、新田義貞が足利尊氏と対立して敗れたため、北朝側の新田一族・駆逐作戦にあい、故郷を捨てて遊行僧となり、長阿弥と名乗って諸国を放浪しました。この時息子の親氏も同じく徳阿弥と名乗って行動をともにしています。

やがて親子は三河の国に流れ着き、ここで酒井五郎左衛門に保護されて、親氏は婿になって広親という子供をもうけました。この酒井家は後に徳川の四天王になる酒井家であり、酒井忠勝は広親から8代目の子孫です。

しかしこの親氏の妻がはやく亡くなったため、親氏は更に同所の松平太郎左衛門の家の婿になり、泰親という子供をもうけます。家康はこの泰親から8代目に当たります。

この系図が本物なのか偽物なのかについては意見が分かれるところです。

なお、のちに家康は豊臣秀吉により三河から江戸に左遷されますが、家康はこの江戸を絶好の本拠地として開拓していきます。その江戸の守護神である神田明神には、松平家の祖である親氏も遊行僧時代に立ち寄り、祈祷したことがあるとのことです。


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