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関ヶ原の戦い(1600)

慶長5年(1600)9月15日、928年前に天武天皇が天下分け目の戦い(壬申の乱)を制したゆかりの土地・関ヶ原において、再び天下分け目の合戦が行われ、徳川家康が勝って江戸時代の幕を開けました。

天武天皇が天下を取った時は双方の戦力は約3万同士だったといいます。その当時の人口は全国で600万人程度。この関ヶ原の戦いの時の全国人口は恐らく2000万人弱。約3倍になっています。そしてこの時の勢力も双方8万人程度。やはり約3倍になっていました。

秀吉が織田信長の死後天下を取ることが出来たのは賤ヶ岳七本槍の加藤清正・福島正則らの、いわゆる武功派の大名達の働きによるものでした。しかし世の中が安定してきますと、彼らは政治の中心から外され代わって事務能力に優れる石田三成らの奉行派の官僚武士たちが幅を利かせるようになってきます。これに不満を持つ武功派大名たちは秀吉存命中は大恩ある秀吉の配下にいたものの、慶長3年(1598)秀吉が亡くなり、後継者の秀頼は幼く奉行派たちが我が物顔で活動し始めると我慢ができなくなり、天下統一への道のりを信長・秀吉と共に戦ってきた家康の元に急速に接近していきます。

慶長4年には両派が衝突するのを抑えていた重鎮前田利家も亡くなり歯止めが利かなくなります。かくして不穏な空気が次第に濃くなり、決戦は避けられない情勢になってきました。

慶長5年6月18日、京都伏見城にいた徳川家康は会津の上杉景勝を討つと称して大軍を率い、東海道を降りていきます。ここで安国寺恵瓊(秀吉が信長の死の直前毛利攻めをしていた時和平の交渉役をした人)はこの機会に家康を背後から襲い、上杉と呼応して挟み撃ちにして倒そうと提案、石田三成らも7月17日家康追討を天下に宣言して毛利輝元を総大将に指名、まず伏見城を攻め8月1日には城を落として留守番をしていた鳥居元忠を戦死させました。

その知らせを聞いた家康も急ぎ軍を帰します。まずは福島正則・黒田長政らを急ぎ清洲城まで走らせるとともに、江戸城に入って軍備を整え、結城秀康・松平康元らに上杉を牽制するための軍を預けた上で自らが率いる本隊も9月1日には江戸を出立しました。

一方の石田三成も9月10日には大垣城に入ります。時間的に見て家康の到着は15日頃であろうと考えていました。集まった兵力は8万2千。決戦までには大阪で控えている総大将毛利の軍も合流する筈です。対して徳川の軍は7万くらいと見積もれました。十分勝てる計算です。

ところが予想に反して家康は9月11日に大垣までやってきて城に迫る気配を見せました。その速度に驚く三成ですが、大垣城は堅牢な城、簡単に落ちるとは思えません。小競り合いが起きますが緒戦は石田側が勝利を納めムードは盛り上がります。

ところが突然家康は14日大垣城を無視して、三成の本来の居城である佐和山城を攻める気配を見せました。予想外の行動にまたまた驚く三成ですが、家康の進行方向には関ヶ原がありました。その近くには長宗我部盛親・安国寺恵瓊・小早川秀秋らの西軍の武将が陣を張っています。三成は急遽決戦の場所を関が原に変更、自らも大垣城を出て関ヶ原に急ぎました。

家康らの東軍は15日明け方に関ヶ原に入ります。そして午前7時頃、戦端が切って落とされました。

まずは家康の親衛隊の井伊直政らが30騎ほどで宇喜多秀家の軍に突入、これに福島正則の軍が続きます。そして東軍の藤堂高虎・京極高知らの軍と西軍の大谷吉継の軍が激突、そして東軍の黒田長政・細川忠興らの軍は石田三成の本隊に迫ります。わずか8平方キロの狭い土地で物凄い密度の兵士が入り乱れ、戦況は一進一退を続けました。

ところがその状況の下で小早川秀秋・毛利秀元・吉川広家らの隊はまだ戦況を眺めていました。三成が早く参戦するよう指示を送りましたが、動こうとはしません。

そもそも小早川秀秋は豊臣秀吉の正室ねねの甥にあたります。ねねは秀吉が死んで淀君が権勢を振るうようになった時点で隠居し、武功派の大名たちや徳川家康らが彼女の回りに集まっていました。この関ヶ原の戦いの裏には、実はねね対淀君という女の戦いもあったのです。

小早川秀秋は秀吉には義理があっても淀君に別に義理はありません。むしろねね様を守るべき立場にあります。そこで最初西軍に付くように見せて実際には東軍に回って西軍を攪乱させる役割を果たすことで、家康とも話が出来ていたようなのですが、どの時点で反転すればよいのか状況を見極めかねていました。家康側からも早く東軍に参加するよう伝令が来ていました。秀秋は東西両軍からの指令を前に悩んでいました。

そしてとうとうしびれを切らした家康は小早川の軍へ鉄砲を打ち込みます。これで決断が付いた秀秋はただちに軍を指揮して山を降り、西軍の大谷吉継の軍を襲いました。

これに反応して小川祐忠・脇坂安治らの西軍の武将も東軍に寝返り、西軍は突如としてガタガタになります。まず大谷隊が壊滅、続いて小西行長の隊もバラバラになります。その様子を見ていた毛利・吉川両軍は結局戦闘に参加せずにそのまま退却します。結局西軍の部隊は次々に潰され、やがて宇喜多秀家の隊も敗走、三成も退却を余儀なくされて勝負は付きました。

西軍で最後まで撤退しなかったのは島津義広の部隊でした。島津も戦闘には参加せずに様子を見ていたのですが、気が付いてみると回りはみな東軍で、他には全く西軍の兵がいません。

ここで島津は戦闘を完全放棄。全滅を避けるため、全員武器を捨てて、丸く集団となり、万一敵が斬りかかってきても一切抵抗せずに、外側の者はだまって斬られる、という歴史上類を見ない戦略を用いて東軍の中を通過。義弘自身を含む80名が生還することに成功しました。

この戦いを後から見てみると、最初は西軍が8万2千、東軍が7万5千だったとはいえ、小早川の1万5千をはじめ2万が東軍に付き、毛利・吉川の1万6千を含めて2万6千は最後まで戦闘に参加しませんでしたので、結局西軍は4万1千、東軍は9万5千で戦ったことになります。これでは西軍は全く歯が立ちませんでした。

この後、三成は21日に岩窟に身を潜めている所を東軍に発見され逮捕、小西行長・安国寺恵瓊とともに10月1日六条河原で斬首されます。


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