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山崎の合戦(1582)

さて、2日の本能寺の変の後4日に毛利と急遽和議を結ぶことに成功した秀吉は6月6日に姫路城に帰着しました。陣営を整えて9日念のため毛利が来た時に備えて浅野長政に姫路城を託し東進、まず明智光秀系の武将がいた洲本城を落とし、11日尼崎で丹羽長秀・織田信孝らの使者や池田恒興らと合流します。12日軍議を開き高山長房と中川清秀を先鋒に決定、その日は富田城に宿しました。

その間光秀は各方面に支援を求めますが細川藤孝・忠興親子は丹後へ逃れ更に光秀の娘である忠興の妻を別居させます。そして大阪に先制攻撃をするために『洞ヶ峠』で光秀と合流することになっていた筒井順慶も秀吉が来たという話をきくと城に閉じこもってしまい、光秀は待ちぼうけを食わされてしまいました。やむをえず光秀はいったん兵を返します。

12日光秀はやっと秀吉が戻って来た事を知りました。慌てて要所の『天王山』を押さえようとしますが既に秀吉側の先鋒中川清秀が陣取っていました。13日昼頃織田信孝が到着し、13日午後4時頃からこの山崎の合戦が始まりました。明智の軍は本能寺を襲った時と同じく1万5千、一方の秀吉軍は4万の軍勢でした。

光秀はなんとしても天王山を取ろうと必死に中川の陣を攻めますが、そこに黒田孝高(如水,官兵衛)・羽柴秀長(秀吉の弟)らの軍が襲いかかって結局光秀軍は総崩れになり、光秀は近くの勝龍寺城に逃げ込みます。しかし、ここでも支えきれず数人の警護のものを連れて夜の闇に乗じて伏見へ逃がれて安土城を占拠していた明智秀満と合流しようとします。しかし途中小栗栖の竹藪を通っていた時、鎧を売り飛ばすのを目当てにした山賊の襲撃を受け、あえない最期を遂げてしまいました。本能寺で信長を討ってからわずか11日半の天下でした。

その明智秀満は坂本城ではなばなしく爆死し、斎藤利三(春日局の父)は捕らえられて六条河原で斬られます。やがて明智光秀の首が発見され、光秀と利三の首が本能寺の前に晒されました。これによって人々は次は秀吉の天下であることを予感したのです。

明智光秀はいづれ倒されていたのでしょうが、それを物理的に倒すことのできる兵を擁していたのは秀吉・勝家・家康の3人だけでした。家康は軍備を整えて14日には尾張まで来ていましたが19日に平定の知らせを聞き、浜松に戻ります。そして彼は豊臣の世を堪え忍んだ後天下を手中にします。勝家の方は秀吉のように和議したのではなく戦いに勝ったために逆に残党の追撃を恐れてすぐには動けませんでした。彼はこの劣勢をはねかえそうとあせって賤ヶ岳の戦いに破れて消えていきます。偶然密使を捕らえたことといい秀吉は強運の人でした。


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