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熊沢天皇の出現(1946.01)

1946年1月18日、南朝の子孫と名乗る熊沢寛道が自分こそが正統な天皇であると主張しているということが、米軍系の新聞「Stars and Stripes」で紹介されました。

訴えによれば、熊沢氏は南朝の最後の天皇である後亀山天皇の孫にあたる熊野宮信雅王の子孫であり、同家は代々自分の家こそが本来の天皇の正統であるとして「即位」をしてきたということでした。実際、寛道氏の父である熊沢大然氏も明治時代に、こちらが正統だという訴えを起こしています。

南北朝の時代のおさらいをしておくと、事件の発端は88代後嵯峨天皇の皇子の後深草天皇が病弱であったことから早めに弟の亀山天皇に譲位した後で、後深草上皇の周囲で、皇統を完全に向こうに渡すのが惜しいという事で争いになりかけたところを鎌倉幕府の仲裁で、双方から交互に天皇を出すなどというとんでもない協定が結ばれたことです。ここで後深草天皇の系統=持明院統 →後の北朝亀山 天皇の系統=大覚寺統 →後の南朝です。時代はやがて元寇から鎌倉幕府が行き詰まりを見せ、大覚寺統の後醍醐天皇が『建武の中興』を行いますが、すぐに武士勢力と対立。その中心となった足利尊氏は持明院統の量仁親王を立てて天皇として即位させ(光厳天皇,*1)、その天皇から征夷大将軍に任じられる形で、賊軍の汚名を着ないようにしました。

しかし尊氏らの勢力に終われた後醍醐天皇は三種の神器を持ったまま奈良の山奥に逃れたため、京都にいる光厳天皇と、同時にふたりの天皇が並立するという前代未聞の事態が起きてしまいます。

(*1)この付近の事情は極めて複雑で歴史家でも解釈が様々に分かれる。恐らく 実情に近いであろう所を辿ると、元々後醍醐天皇は元弘の変で捕らえられて 隠岐に流された時に退位しており光厳天皇は正式に即位していたと考えられ ます。しかしその後、後醍醐上皇が光厳天皇を無視して「自立登極」を宣言 してしまったため、光厳天皇は事実上浮いてしまった。尊氏はこの事情に 注目し、もともと光厳天皇の方が正統であると主張したのである。

しかし世の中はやはり覇権を取った足利家の方に傾いていきます。後醍醐天皇に最後まで付き従った楠木正成・正行親子が戦死した後は北畠一族らの少数の支援者にだけ支えられて、南朝側は細々とした生活を続け、結局三代将軍足利義満の時代、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、そこまでは南朝側が正統であったが後亀山天皇が後小松天皇に譲位した、という形をとって南北朝は統一されました。

この統一の際、結ばれた約束ではその後北朝側と南朝側から交互に天皇を出すということにはなっていたのですが、三種の神器が戻った以上、足利家がそんな約束を守るわけもなく、その後南朝の系統が歴史の舞台に現れることは二度とありませんでした。また後亀山天皇の子孫については文献などの資料も曖昧であり、色々名前が残っている人についても、正確な所はよく分かりません。熊沢家が主張する「信雅王」についても、実際の所どうもよく分からない感じです。この戦後「熊沢天皇」が名乗り出た時も、当時の歴史学者はその信雅王の実在に否定的でした。

またもし熊沢家が本当に南朝の子孫であったとしても、歴史的に当時北朝側が勢力争いに勝利して皇統を嗣いでいく権利を獲得していたわけですから、今更こちらが正統などと主張しても意味がありません。そんなことを言っていたら日本中に何百万人といる天皇の血筋を引く人たち(例えば清和源氏系の一族)にみな「我こそが正統」と主張できる権利があるでしょう。歴史は巻き戻しは効きません。

それよりもなぜこの時期に「熊沢天皇」などというのが話題になったのかということの方が問題でしょう。その鍵はなんといっても第一報を報じたのが米軍の新聞であったことにあります。

当時まだGHQは日本の行方がどうなるのかということに不安を持っていました。1946年1月1日には天皇に「人間宣言」などをさせて、神格化を否定しています。その直後の1月18日にこういう報道をしたのは、なによりも皇室の権威を少しでも揺るがしておこうという意図が強く働いていたことは間違いありません。

「熊沢天皇」は自らの正統性を訴えて全国を行脚しますが、反応は冷たいものでした。それに対して、昭和天皇のほうは自らの地位云々などは言わずに戦争で痛んだ国民を励ますために全国を回り、その姿にこそ国民は鼓舞され、復興を誓い、元気を取り戻していきました。そしてそういう状況を見たGHQも日本の帝国主義復活は無いと判断。この皇室こそがアメリカが支援すべき皇室だと認識します。そして「熊沢天皇」に対してはGHQも次第に冷ややかな態度を取るようになっていきました。

1951年には熊沢寛道は東京地方裁判所に自分の正統性を認めるよう裁判を起こしますが、天皇は裁判権に服さないとして門前払いを受けました。その後は彼は特に大きく報道されることもなく1966年死去しています。


(2004-01-15)

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