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マッカーサー日本着(1945)

昭和天皇の玉音放送が流れて全国民に敗戦が知らされてから15日後、1945年8月30日の14:05。パイブをくわえた粋な姿の連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が「バターン号」から厚木飛行場に降り立ちました。これから朝鮮戦争における発言の責任を問われて解任される1951年4月11日まで2050日間、日本はこの類い希な理想家の支配下に置かれました。

マッカーサー元帥は随分「名言」を遺した人です。太平洋戦争中の1942年3月11日フィリピンで日本軍の攻撃を受けやむなく退却した時は「I shall return.」と言いました。willではなくshallと言った所が彼の軍人らしい強い意思を表しています。そしてその言葉は昭和19年実現されレイテ島で日本軍を壊滅させ、「フィリピン国民諸君。私は戻ってきた」と言って、政権をセルギオ・オスメニア大統領に引き継ぎます。

そして日本降伏。430隻もの大艦隊を27日には沿岸に並べ、28日先遣隊146名が厚木到着、そしてこの日元帥自身が堂々とした姿で到着します。この間に日本がやったことはどうもなっていません。終戦後すぐの17日に発足した東久邇宮内閣は「一億総懺悔」などと発言して顰蹙を買います。8月23日の朝日新聞は「婦女子は外国軍人に隙を見せないよう」などと報じ、27日には内務省が占領軍用の『慰安施設』を設立して、慰安婦を募集しました。が、これも批判を浴びてすぐに閉鎖されます。

さてマッカーサーは9月2日に東京湾に浮かぶミズーリ号の上で日本の無条件降伏に対する調印式。そして「東京には進駐しないで欲しい」という日本政府の声をあっさり無視して9月8日8000人の将兵を引きつけて威風堂々と東京に入り皇居をしっかり見下ろすことのできる日比谷の第一生命ビル(現DNタワー21)の6階正社長室に執務室を置いてGHQの指揮を取りました。

9月27日には天皇がマッカーサーを訪問。この時背が低くピチっとした正装の天皇と背が高く開襟シャツでくつろいだ姿のマッカーサーが並んだ写真は全国に新聞を通して出回ると、日本人に改めてこの戦争に負けたのだ、という意識をはっきりと植え付けました。

アメリカが最も恐れていたのはこの敗戦を契機に日本に共産主義革命が起きることでした。当時日本の敗戦が確実となってきた段階でアメリカにとって最大の敵はソビエトだったのです。そこで日本降伏のすぐあと8月16日にはトルーマン大統領が「日本は分割統治しない」と言明、マッカーサーも天皇と会ってこの人物は利用できると判断すると敢えて天皇の戦争責任は問わずにその天皇を中核にして日本をアメリカにとって都合のよい国に変身させる政策を取り始めます。そのためには日本国民に今まで敵国として憎んでいたアメリカを魅力ある国と思わせる施策が必要でした。そこで最初にとったのがアメリカの豊かな物資を食う物も食えず着る物も切れずにいた日本人の前に見せつけることでした。

占領軍(日本ではこの言葉を嫌って進駐軍と言い張った)のジープは子供達にチョコレートをどんどん配ります。Come on! children, chocolates for you!「ギブミー・チョコレート!」そのほかにもチーズ・バター・ビスケット・タバコ・チューインガム、アメリカ兵たちはどんどん物資を日本各地で配ります。アメリカ兵や家族向けの施設のショウウィンドウにも色鮮やかな食品・衣料品・日用雑貨が高く積まれ、通り行く日本人たちの目を奪いました。

一方、GHQは日本の非軍事化と民主化を強力に推進します。教科書の黒塗り、政治犯の釈放指示、治安維持法の廃止、軍国主義者の教職員追放、戦争映画の禁止、航空機開発・原子物理学・テレビ技術・暗号技術の研究の禁止、陸軍省・海軍省の廃止、修身及び日本史の授業停止、そして財閥解体、農地改革、そして年が明けて1946年になると天皇自らが全国を行脚して国民を力づけます。その姿を見た国民は、国民こそが国の主役なのであるという民主主義というものの意識に目覚めます。それは戦時中強制された「国のため」という名のもとにさんざん虐げられて来た人々にとって新しい価値観を創造するものでした。

1946年3月6日新憲法の草案発表。マッカーサーは最初新しい憲法を作るよう日本政府に指示しましたが、政府が持ってきた案はあまりにも話にならない代物でした。そのためマッカーサー自身がその骨格を書く羽目になります。この憲法にはマッカーサーの理想が多く含まれていました。軍隊を持たない平和国家。象徴としての天皇。全ての国民が平等であること。言論の自由。男女差別の撤廃。労働者の権利の保護。GHQ内部にさえも日本から軍隊を無くしたら日本は敵にもならないかも知れないがアメリカの味方にもならないのではないかと強い異論がありましたがマッカーサーは押し切りました。

4月10日女性も参政権が認められた新選挙法による総選挙。39名の女性議員が誕生。この新国会で憲法案は審議され10月7日可決。11月3日発布。翌年4月から新しい六三制学校制度。5月3日新憲法施行。民主化はどんどん進んでいきました。国民も復興に燃えていました。

しかしやがて暗雲が立ちこめ始めます。1948年朝鮮半島に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国という二つの国家ができてしまいました。そして1949年10月1日には北京(ペイチン)の天安門(チエンアンメン)広場で毛沢東(マオツォートン)は中華人民共和国の成立を宣言。マッカーサーは理想を曲げて日本に再軍備をさせる必要性を感じ始めました。翌1950年1月1日「日本国憲法は自衛権は否定していない」と年頭の声明で述べます。

そしてとうとう6月5日朝鮮戦争勃発。マッカーサー元帥は国会を通さない超法規的な命令であるポツダム政令により警察予備隊を設置させ、カービン銃で武装した紛れもない軍隊を誕生させました。マッカーサーは奇襲攻撃により9月15日北朝鮮から首都ソウルを奪回、これに対して北朝鮮は中国軍ソ連軍の支援を受けて対抗、10月25日再びソウルを奪います。これに対してアメリカも大量に戦力を投入して翌年3月14日、再度ソウルを取り戻しました。この間日本はこの戦争にともなう特需で沸き復興に拍車が掛かります。そして20日マッカーサーは「中国本土攻撃も辞さない」と威嚇。しかしこれがトルーマン大統領の逆鱗に触れました。

何とか早めに戦争を収拾したかったトルーマンは「勝手にそんなことを言うのは大統領の権限への挑戦である!」と怒り、マッカーサーを解任します。4月11日。アメリカ軍にとってもマッカーサーにとっても、そして日本国民にとっても突然のできごとでした。16日マッカーサーは大勢の日本国民に暖かく見送られて日本を去ります。この様子はテレビが全国に実況中継し、国会もマッカーサーへの感謝の決議を行いました。

帰国後マッカーサーはアメリカ国会で演説。最後にこう述べました。

「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ」

『ダグラス・マツカーサー』Douglas MacArthur 1880.1.26 アーカーソン州リトルロック生まれ。第一次世界大戦・第二次世界大戦・朝鮮戦争に従軍。極東軍総司令官、GHQ最高司令官。1964年死去。


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