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ダントン処刑(1794)

今日はフランス革命の話でもしましょう。

1794年の4月5日、ダントンが処刑され、フランス革命政府はますます厳しい恐怖政治へと突き進むことになりました。

フランス革命の発端は国王の失政にあります。

フランスは太陽王と言われたルイ14世の時に華やかな繁栄の時代を過ごしますが、彼の死後国王となった曾孫のルイ15世はポーランド・オーストリア・イギリスとの戦争で大量にお金を使い、しかも領地を失って国家財政を苦しくします。その後をついだ15世の孫のルイ16世はチュルゴー、ネッケルらを登用して何とか財政再建に務めますが、アメリカ独立戦争(1776-1783)に介入したばかりに更に借金を増やすことになります。

事態の打開を図ろうとしたルイ16世は1789年長く開催されていなかった三部会(貴族・聖職者・市民の代表からなる議会)を開催しますが、市民たちの代表が過激化、議事は紛糾します。色々な動きが出ますが市民代表たちは6月20日「テニスコートの誓い」を行い団結して事に臨むことを確認しあいました。そしてルイ16世が愚かにも国民に人気のあった財務長官ネッケルを罷免(7.11)しますと、市民が騒然となり、とうとう7月14日、バスチーユ監獄が市民たちに襲撃される事件が起こります。一般にはこの日をフランス革命のスタートとみなします。

事態を掌握したのは、三部会の市民代表に一部の聖職者・貴族が合流してできた国民議会でした。国民議会は8月4日封建制の廃止を決議、8月27日には名高い「人権宣言」を採択して、国王夫妻は身柄をベルサイユからパリへ強制的に移されます。

最初の頃は一応国王を立てて改革を進めようとしていた市民たちでしたが、2年後の1791年6月、国王夫妻が密かにオーストリアに亡命を試みると国民は「国王は自分たちを捨てるのか?そんな国王ならいらない」と国王夫妻に対する感情が悪化します。結局夫妻は国境の近くの町で拘束されパリに戻されました。市民たちはこれを「パン屋の親方と女房を連れ戻した」と表現したといいます。

翌年国王夫妻は裁判にかけられ、死刑が宣告されます。1793年の1月21日にルイ16世が処刑され、10月16日には王妃マリー・アントワネットも新発明の処刑器具ギロチンによって処刑されました。ギロチンは大量に死刑を執行しなければならないという必要性と、処刑される人が一瞬で死んで苦しまなくて済むようにという人道的?見地から採用されたものです。

しかしギロチンで切られた首は30秒くらいはまだ生きているという説もありますから、ほんとうに苦しまなくて済む処刑法なのかはやや疑問が残る所です。通常ギロチンに人を乗せる時は落ちてくる刃を見なくて済むように下向きに置かれますが、国民の憎しみが集中していたマリー・アントワネットは上向きに乗せられたとも伝えられています。

さて、この間フランス革命を主導してきたのは「サン・キュロット」と呼ばれる人たちです。キュロットとは半ズボンのことで、貴族の標準的な服装でした。それを穿かない一般市民であるということで「キュロット無し」つまり「サン・キュロット」となる訳です。

その中でも有力な派閥だったのが「ジロンド党」と「ジャコバン党」ですが、一時は穏健なジロンド党が政権を取ります(1792年3月23日)。しかしこれがやがてマラーらの積極的な活動によりひっくり返り、1793年6月2日、ジロンド党が国外追放されて、ジャコバン党が政権を掌握、新憲法を成立させて恐怖政治を始めます。

当時、貴族や政府官吏などが極めてささいな罪でどんどん処刑されました。質量保存の法則の発見者ラボアジェなども科学関係の政府の委員をしていた為にギロチンの露と消えます。そのギロチンの発明者ギヨチーヌ自身もギロチンで処刑されました。

そんな中ジャコバン党の指導者たちも次々に倒れていくことになります。まずマラーが詩人コルネーユの姪の娘コルデーに浴室で刺殺されます。彼女はマラーこそがこの恐怖政治の中心と考えて暗殺したのですが、もっと怖い人物が残っていました。無論彼女はすぐに捕らえられ、4日後に処刑されます。

マラーの死後ジャコバン党を指揮したのはダントンとロベスピエールでしたが二人は恐怖政治をどんどん先鋭化していきます。結局このジャコバン党政権下でコンコルド広場のギロチンで処刑された人の数は10ヶ月間に2800人にのぼると言われています。1日10人平均の計算です。またその間の全国での処刑者は14,000人にのぼるとも言われています。そんな中、やがてダントンとロベスピエールの路線も時々対立するようになっていきました。こうなると先に手を打った方の勝ちです。

1794年3月10日、ロベスピエールはまず最大のライバルであるダントンとその一派を逮捕、続いて13日には次に問題になりそうなエベール一派を逮捕して即裁判にかけます。無論この時代の裁判には意味がなく、死刑を宣告しなければ裁判官が処刑される時代。3月24日に先にエベールらが処刑、そして4月5日にダントンらが処刑されました。ギロチンに乗せられたダントンは処刑直前にこう叫んだと言います。「私の首をみんなに見せろ。その値打ちはある」と。

無論、このような無茶な恐怖政治は長持ちしませんでした。その年7月27日、革命暦で熱月(テルミドール)8日、カンボンやタリアンらの、ロベスピエールと対立し始めた一派が先手を打ってロベスピエール一派を根こそぎ逮捕。有無を言わさず翌日処刑して恐怖政治を終わらせました。世にテルミドールの反動と呼ばれる事件です。このロベスピエールの処刑で国民はやっと胸をなで下ろすことができました。

タリアンらは一時的に政権を掌握するもののあまり指導力はなく、政府は混乱、やがて1799年ナポレオンのクーデターによって時代は革命終結に向けて動き出すことになります。


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