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血の日曜日事件(1905)

これがこれから17年間にわたって続くロシア革命の幕開けでした。

当時のロシア皇帝はニコライ2世です。皇太子時代に日本を訪問していて、大津事件に遭い負傷。その因縁の日本と1904年2月から1905年9月まで日露戦争を戦っています。しかしその戦争の最中に起きたこの事件以降の動きによりロシアはどっちみち戦争継続不能になっていました。

1905年1月22日(革命後の新暦による。当時の暦では1月9日)の日曜日、かねてからの生活苦に不満を抱いた市民たちが首都ペテルブルグの冬宮前広場に集まりデモを始めました。市民たちはガボン(*1)の煽動もあり、憲法改正をも叫ぶようになっていました。政府はこの騒ぎを鎮圧するため軍隊を出動させ、両者の衝突で軍隊が発砲。死傷者3000人以上という大惨事を引き起こしてしまいます。

これに反発した全国各地の民衆は各地でストライキを断行。ロシアの経済がマヒ状態に陥ってしまいました。そして6月には戦艦ポチョムキン号の水兵の反乱まで起き、追いつめられた政府は日露戦争を終結させる一方、十月勅令を出して、国会の開催と立憲君主制の実現を約束せざるを得なくなります。

この日露戦争終結にあたって日本との賠償問題交渉に赴いたのがヴィッテでした。彼は巧みな交渉術で、賠償金も大きな領土分割も無しで切り抜けてしまいます。せっかく勝った日本は朝鮮半島での優先権、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道の利権、南樺太の領有権を得ただけでした。そしてこのヴィッテが立憲君主制下の初代首相に就任します。

ニコライ2世はこの十月勅令に先立ちドイツ皇帝とビョルケ密約を結んでいましたがヴィッテはこれを破棄させて改革を進めていきます。しかしもっと急進な改革を要求する民衆は12月モスクワで大規模な蜂起を起こします。これにたいして皇帝はブルジョワ勢力と連携してこれを弾圧。やがてヴィッテも辞任に追い込まれて、ストルイビンが次の首相に就任しました。

ストルイビンは革命勢力を徹底的に弾圧する恐怖政治を行う一方農地改革を行って自由農民を多数生まれさせ、ブルジョア国家への道を模索します。しかし1911年暗殺されてこの道も挫折。

1913年ペルブルグの大ストライキ、1914年から始まった第一次世界大戦、と混乱と社会不安が同時進行し、やがて1917年の3月革命により帝政は倒れます。翌年ニコライ2世は家族と共に処刑されてしまいます。

------------------------------------------------------------------(*1)ガボンはよく分からない人物である。警察のスパイで、わざと騒動を大きくしていたともいう。1906年に暗殺される。


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