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ロンメル将軍がアフリカ参戦(1941)

第二次世界大戦の北アフリカ戦線で英米連合軍から「砂漠の狐」と怖れられたロンメル将軍がその北アフリカ戦線に参加したのが1941年の2月3日です。

エルウィン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel)は1891年11月15日、ドイツのウルム市郊外で生まれました。士官学校を卒業して1912年に陸軍少尉に任官。フランス戦線、ロシア戦線、そして北イタリア戦線で活躍します。この経験をもとに書いた「歩兵の攻撃」(1937)がヒットラーの目にとまり、総統護衛大隊の指揮官に抜擢されました。1939年少将に昇進。

第二次世界大戦が始まると1940年2月15日、第7装甲師団長に就任しフランスへの進撃で大活躍をします。彼の部隊は神出鬼没でフランス軍から「幽霊部隊」と怖れられました。

やがて北アフリカ戦線でイギリス相手に苦戦していたイタリアがドイツに支援を求めますと、ヒットラーは彼の部隊をアフリカに転戦させ、これを応援する態勢にしました。ここからが「砂漠の狐」の伝説の始まりでした。

ロンメルの考え方は幾つかありますが、基本的な所を挙げると

 (1)人の犠牲を最小限にせよ。血を流すな。汗を流せ。(2)敵を殲滅する必要はない。中核や指揮系統、補給線を破壊して投降させよ。(3)敵を正面から重火器で突破しようとするより背面から突いて混乱させよ。(4)スピードが命である。砂漠では自動車を持たない部隊は無力。(5)ゲリラ戦で抵抗してくる住民に報復するな。報復すれば更に復讐を招くだけ。

現代のどこかの国のリーダーに彼の爪の垢でも煎じて呑ませたいくらいです。

ロンメルは決断力の速い軍人で、必要だと思ったらいちいち本部からの返事を待たずに素早く行動を起こしました。また、彼は第一次世界大戦で尉官として参戦していた時から、危険な任務ほど自分が先頭に立ち、部下たちに自分に付いてくるよう指示していました。そのため彼の部隊は常に機動性にあふれるとともによくまとまっており、アフリカで戦うイギリス軍、後にその支援にやってきたアメリカ軍の連合軍をひじょうに苦しめることになります。この戦いのさなか、元帥に昇進。

また彼は戦争捕虜もひじょうに丁寧に扱ったため、敵対するイギリスのチャーチルでさえ「ロンメルは聖者だ」と述べています。

彼は補給線を大事にはしていたのですが実はドイツ軍の補給線がこのアフリカ戦線では極めて貧弱でした。イタリア軍が地中海の要所マルタ島を押さえきれなかったため、充分な補給がない状態で彼は2年間も戦い続けざるを得ませんでした。そんな彼も1942年10月のエルアラメインの戦いでは自軍の3倍以上の最新鋭の戦車を持つ英米連合軍の前に敗退。

これでアフリカ戦線は事実上決着が付いてしまいました。

アフリカ戦後はヨーロッパに戻り、今度はフランス北西部で予想された連合軍の上陸作戦に備えますが、敵が上陸する前に叩くべきだというロンメルの主張は受け入れられず、上陸してきた敵と戦おうとしたためノルマンディーでは大敗。以降、ドイツ軍は敗戦に敗戦を重ねていきます。

彼はヒットラーの篤い信任があってスピード出世をしたのですが、思想的には必ずしもヒットラーに近かったわけではなく、彼自身は一切人種差別はしていませんし、むしろユダヤ人虐殺を止めるようヒットラーに提言したりしています。そのような経緯が災いして1944年7月にヒットラーの暗殺未遂事件が起きると彼も関与を疑われてしまいました。

その嫌疑に対して彼は一言も弁明することもなく1944年10月14日、潔く毒杯を仰いで死去。享年52歳。彼は最後まで騎士道の人でした。


(2004-02-02)

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